没、乃至没集
どこまでもロマンティックに出来ている攸治は、これを最早運命と信じて疑わず、しかし同時にどこまでもスタイリストに出来ている反面、ストーキング行為なぞした暁には、渡辺家の名折れとなろう。そこで、偶然を装い、彼女がレジに並ぶと、彼もその後をつけるように、その後ろについた。
そこで、たとい他のレジが空いたとして、その位置から動きたくないと思うのは彼だけではなかろうが、根がスタイリストに出来ているだけに、彼は違うレジへと呼ばれる形でその場を後にしたのであった。それは勿論、飽く迄も自然を装わなくてはならないとの考え。
しかし、なんの神の悪戯か、彼女までその方に向かうのである。
あ、と、もう攸治は目が合っただけで心臓が破裂しそうな態。三度体が震え出すと、心成しか胃まで緊張してくるのである。で、震える声音を最大限落ち着かせて、最大限憮然とした態度で、どうぞ、と、彼女を促すと、これまた愛らしいというか、可愛らしく愛おしいのだが、潤んだ瞳を上三日月に、はにかんで軽く会釈したのであった。この子は僕の事を好きに違いない、そう勘違いさせるほどに。
だが、そうは言っても問屋は卸さない。馬鹿みたいに鼻の下を伸ばす攸治であっても、その奥ふとこる性根は決して楽観的にはできていないのである。
すぐと、いや、俺のような人生落伍者には不相応だ、と、至極当然的な思考を以てして、その暴走する本能を留めようと大わらわになる。即ち、偏差値三十程度の、社会で生き抜くには圧倒的に足りない理知で以てして、その、両親の前科たる、避妊の失敗と性欲の強さ、性欲に流される理知の弱さ、これに打ち勝とうとしたのである。さのみ低俗的な頭の悪さを誇る攸治であったとしても、最早卑屈に関して右に出る者なしの態であった彼にとり、なにより父と同じ轍は踏まぬことに全てを捧げ童貞を貫徹しているのであったから、万が一にも、那由他が一にも、デキ婚なぞといった可能性を排斥し、根絶やしにしてもまだ足りぬ程であって、それら岡惚れの態の恋心を除籍することは不可能であっても、その女と馬鍬いたいと願ずるきな臭い性慾塗れの本能を、何とか理性で抑えることに成功したのであった。
彼女は濡れていた。
今まで受けていた恐怖と、それに伴った精神的苦痛と、凌辱されている間になくなっていくと同時に、広がっていく己の空虚を、その全てを取り戻したかのように彼女は心から安堵し、安心しきってしまったが為、膝から崩れ落ちた。苦痛の根源、その全てからの解放。しかし、小さくなってしまった彼女の器には入りきらない感情の波に、その防波堤は破壊され、芳醇な桃を濡らす、温い安心する波と一緒に、零れさせていた。心地の良い、半身欲と同じく、温かさと、ほっと一息つけるような安心感に、彼女は、自身の下半身がどうなっているのか、まだ気づいていなかった。
彼女は興奮していた。
徐々に荒くなる息遣いとは、叔父から受けた性的虐待の、そのフラッシュバックが、しつこくチカチカ脳内で再生されられ、その度涙が流れ、しかし一度前を向けばある死体とに、彼女は恐怖と安堵の狭間の中間に立っている状態へと陥った。土台彼女はその場から速く立ち去らねばならなかった。それは吊り橋効果ともあるように、あまりに長く速い動悸の最中、変に沸いた愛欲と安堵と安心感を知ってしまうことにより、近い未来、自分も知る由もなかった、己が死体でないと興奮出来ない身体にはなってしまったと、最悪の形で知ってしまうからである。つまり、彼女の脳は、その絶望と安堵感が混ざり合う空間の中で、性的快楽を脳に叩きつけてしまっている状態なのであった。
彼女は最早、絶頂しそうな態であった。
既に脳のエラーを修正するにはよもや遅く、己の感情を取り押さえるにはあまりにも安心しきっていた。歯止めのきかない涙と、その裏にこびりつく愛欲に、抑え込もうとすればする程、高揚する背徳感と、初めて体験する、今まで知りも得なかった快感に拍車がかかっていく。何かが来る。しかしそれは抑えなくてはならない。もう来そう。ダメ、皆がいる。彼女と、その理性は、二律背反の宿命を背負うも、皮肉なことに、その快楽を倍増させているともつゆ知れず、巡りめく己の快楽をその一瞬までみっともなくぶちまけようとしている彼女を、目もくれず留める理性は、我慢すればするほど、後にどれだけ巨大な衝撃が来るか知りもしなかった。
彼女は、絶頂した。みっともなく、抜けた風船のように、我慢していた尿意を、どこにでもマーキングする躾のなっていない猫のように、解放した。決壊した。
まるでエデンの園にいる気分だった。裸になっていないのにも関わらず、彼女は全てから解放された。真に解放された。醜い愛を注ぐ叔父は、もう死んだ。その豚野郎に、卵から孵った雛を世話する親鳥のように愛を注ぐ祖母も、叔父の死体を見て、魂が抜けたように座り込んでいた。ざまあみろと、彼女は思うのも束の間、噴火する火山のように湧き出る己の快楽に、彼女は飲み込まれた。脳からかけて、肩、両腕、指の先、背中、腰、仙骨、股間、内腿、ふくらはぎ、足の指先まで研ぎ澄まされた彼女は、外界の空気をより一層敏感に感じ取り、それが、無数の舌に、愛撫されているようになり、それが、一度のみならず二度、彼女を絶頂させた。破裂した水道管のように、みっともなく、釣り上げられた魚のように蠢く彼女は、初めて生まれてきたことを感謝するのであった。