プトレマイオス・マリッジ・トラベル
ざわめく人の声が混ざり合い一つの喧騒になっている。
濁流のような流れの中、私と彼が立っている。
セントラルポート。
最初の港に戻ってきた。
大きなトランクを引いた女が私にぶつかる。よろめき倒れそうになる足を叱咤して、私はバランスを保つ。
中央フロアに掲げられた巨大な掲示板は、行き先を記すプレートをパラパラと回転させてせわしなく行き先を告げている。
「さあ、帰ろう」
不意に飛び込んだ彼の声に私は頷く。彼が私に手を伸ばす。
私はその手をとろうとして、彼の顔を見る。
「帰るって、どこへ?」
「僕らの部屋さ」
「どの部屋なの?」
「どこでもない部屋さ」
「その部屋は暗いの?」
「わからない」
「その部屋は鍵があるの?」
「わからない」
「その部屋は二人きりなの?」
「そうだよ」
彼は微笑んでいる。私の手が握られる。
「二人きりだよ」
私は目が覚める。
私は、彼と、旅をする前、ずっと二人で部屋にいた。暗い部屋の中で私はじっと座っている。彼が来る時だけ鍵が開き、私たちは小さな部屋の中で二人きりになる。私は彼に愛されている。私も彼を愛している。愛しているという空想を働かせる。
彼の手を解きたい。
彼の力はとても強い。
振り払えない。
私は恐ろしくなる。彼は微笑んでいる。
「帰ろう、早く。外は君にとって毒でしかないよ。旅をして、十分楽しかっただろう?」
「離して! 私の手を離して!」
私はポケットからナイフを取り出す。彼の手を刺す。
彼が呻く。手が離れる。
私は駆ける。
逃げる。
人の波をかき分け、スロープを抜け、コンコースを走る。
中央フロアに掲げられた巨大な掲示板が行き先を示すプレートをパラパラと回転させている。ペルセウス、アルゴ、ケンタウルス。
私はゲートに向かって走る。彼が後ろから追いかけてくる。アルレシャのナイフが彼の手に刺さっている。私は足をもつれさせ、倒れる。彼の目が私を縛る。追いつかれる!
しかし私たちの間に貨物を引いたカートが流れ込む。私は立ち上がる。足が震える。それでも私は走る。足が言う事をきいて速度を上げる。雑踏が私を避けるように分かれる。私は形成された白い一本道をひたすらに走る。彼の声がする。彼のあらゆるパーツが私を捕まえようと追いかけてくる。私は走る。ゲートにたどり着く。チケットがない。私はゲートに入れない。後ろから次の客がゲートにチケットを通す。私は開いたゲートに戸惑う。後ろから客に押され私はゲートを通り抜ける。
「行きなさい」「行きなさい」「振り返らないで」「さあ行きなさい」
私は走る。
停泊した船に私は飛び乗る。
震動。
船が動き出す。
彼の叫ぶ声が僅かに、耳へ飛び込んだ。
船の大きな窓から港を見る。彼が何人もの人間に取り押さえられている。
彼が私を見ている。
鋭い視線が私を貫く。
さようなら、と私は呟く。空想の花婿。私を縛る一人きりの男。次第に遠くなる彼の姿に、私の心は安堵する。
今、私は一人になった。
彼の持つ手綱を千切り、私は広い海に身を投げる。
指輪は炎を絶やさずにいる。
作品名:プトレマイオス・マリッジ・トラベル 作家名:ミツバ