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端数報告3

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図はこのように作り直さねばなりませんが、変ですね。あなたが親に会おうと会うまいと、あなたの親はキャリアに巻かれていることになる。マスクその他はどうやらほとんど感染を防ぐ役には立っていないようですから、あなたの親にはほぼ確実な死が待っていることになる。感染の度が80パーで、コロナの致死率も高齢者では80パーであると言うならそうなります。
 
でも、そうなっていませんね。テレビは「今日は新たに○人の感染を確認」「今日は新たに○人の感染を確認」と言う。言うけど、ただその数が増えるばかりで老人がバタバタ死んでるという報道はない。別に息子が親に会いに行かなくても死ぬ理屈なのにそうなってない。
 
それどころか、最近は、「今日は何人死んだ」という報道も聞かない。昨日は何人が死んだのでしょう。ニュースが言わないのでわかりません。
 
一日に出る死者の数が、新たに確認される感染者の数に比例するなら今年になって、日に千・二千と死ななければなりません。あしたに三千人死んで、あさって四千死ななきゃ計算が合いません。あなたが親に会いに行けば親は確実に死ぬようなことを政治家や学者は言うが、じゃあ一万も死んでんですか。
 
一日一万。「オレが会ったから親は死んだーっ!!」と叫んで泣いてる人がそんなにたくさんいるんでしょうか。私には、「別にその人が死なせたとは限らんだろう、おれが犬を死なせちまったのと違って」としか思えんのですが、一万いるの?
 
日本の人口が一億二千万、うち二千万が高齢者として、感染の度が10パーセント、致死率も10パーとすれば二十万人がこの数日のうちに死ぬことになる。最終的に百万てとこかな、これは物凄い〈禍〉と言えますがそんな話でもないようですね。割合50の致死率50か、割合80の致死率80みたいに聞こえる割にはどうにもこうにも死者の数が少ないようです。それどころか私には、ニュースが言うのは感染の度は2000パーセントにも達しているが致死率は0.00000001パーセントとでも言ってるように聞こえる。
 
私の耳はちょっとおかしいのでしょうか。「今日は何人死亡」というニュースをこのひと月ばかり聞いた憶えがないのですが私が聞いてないだけですか。
 
ひょっとして「感染が拡大してる、拡大してる」「緊急事態だ、緊急事態だ」と言う割には日に何人も死んでない。「今日は日本全国で3人」と報道すると、「なぜ比例して増えないのか」と人に思われてしまうから報道できないのじゃないでしょうね。感染者がどれだけ多くても死ぬ人間が少ないのならそれは〈禍〉とは言えないはずです。
 
それはたんに普通の風邪が普通に流行っているだけです。普通の風邪でも人は死にます。聞いたことはありませんか、 
「風邪だと思って甘く見るな。風邪は本当は怖い病気だ。肺炎になって死ぬ人が毎年たくさんいるんだぞ」
という言葉を。年に千人や二千人は、普通に死んでるものなんじゃないのでしょうか。去年まで、私はそう思ってたのですが違うのですか。
 
高齢者の人口が二千万なら千人は、二万人にひとりです。二千人でも一万にひとり。この程度の数が死ぬのがこの世の終わりのように騒がれるほどの大事(おおごと)なのか。
 
私はそう思いません。二千万人の中の0.00001パーセント。同じくらいの数が毎年階段で足を踏み外して転落死してるはずですし、火事や交通事故で何倍も何十倍も死んでいる。もちろん、癌で年間に何十万も死んでるでしょう。
 
人は死に方を選べません。自分はタバコを吸わないのに副流煙の肺癌で何年もベッドに縛り付けられ、痛い痛いと苦しみながら死んでいく人もいます。年に千人もです。その場合、誰が苦しめて死なせたのかははっきりしていますね。タバコを吸う同居人です。しかし歩きタバコほどの社会問題視された話は聞きません。
 
なぜかと言えば、それは年に千人くらいのものだからです。二千万人の中の0.00001パーセント。それは当事者と遺族にとっての不幸であっても社会の脅威の数字ではない。
 
【〈スペイン風邪〉以降の百年間に肺炎の死者がゼロだったのが去年にいきなり千人・二千人】という考え方をしてはいけません。毎年千人、日に何人か死んでいて去年の2月・3月には確かに多く死んだようですが4月以降は完全に例年通りとなってるはずです。一昨年(おととし)まではお年寄りが肺炎で死んでも、
 
「肺炎ですか。怖いですねえ。風邪はほんとは怖い病気だとよく言いますがほんとですね。けれどもあまり苦しまずに畳の上で死ねたということですから、それがせめてもの救いでしょうね」
 
と言っておしまいとなってたはずです。
 
それで何がいけないのでしょう。
 
ウチの犬が死んだときに近所の人は、
 
「ジステンパー? 怖いわねえ。でもクロちゃんは幸せだったね。最期は家族に看取ってもらえて」
 
などと言っていました。私は複雑な心境でしたが、「おれが殺した」と私が言うのを誰も望んでいないのがわかっていたので黙っていました。ことはタバコの副流煙の肺癌で苦しんで死ぬ人の最後と違います。肺炎で人が死ぬことは、誰かに風邪のウイルスを伝染(ウツ)されたということですが、「伝染(ウツ)したのは誰だ」なんてことを言う人間はいなかった。
 
 
  ○ ○ ○ ○ ○
  ○ ○ ○ ○ ○
  ○ ○ ○ ○ ○
  ○ ○ ○ ○ ○
  ○ ○ ○ ○ ○
 
 
去年までは。検査しなけりゃ全員がシロ。誰も悪者になることがなく、「比較的安楽な死で良かった」ということにさえなり、小さな社会は保たれる。高齢者の肺炎による死などというのは、2019年まではそれで済んできたもののはずです。
 
それでいいのではないでしょうか。
 
何がいけないのですか。全員を検査したところで、風邪のキャリアが複数いれば誰が伝染(ウツ)したかわかりません。犬を死なせた私と違って犯人の特定は不可能なのです。それとも、端からひとりずつ検査していき最初に〈陽性〉と出た者を「こいつだ」ということにしますか。
 
それはスケープゴートですよね。やれば〈社会〉はガタガタですよね。副流煙による肺癌で人が死んだ場合でも、人は「お前が殺した」などと〈犯人〉にあまり言いはしないはずです。むしろ「自分を責めるな」と言うのが普通じゃないでしょうか。
 
それで何がいけないのでしょう。2019。平成の日本まではそうだったはずです。しかし今、令和となったこの国でそれが逆になっていないか。
 
スケープゴートを出して、叩く。それが正義となっている。政府は今、コロナの検査態勢を強化すると言っています。野党議員も誰ひとり、反対せずに「やろう。やらねば」と言っている。だから行われるのでしょうが、【検査態勢を強化する】とはどういうことなのでしょうか。
 
国民全員を検査すること? 毎日毎日。違いますよね。一日千人毎日検査していたものを一日二千にするということ。私は去年4月の緊急事態宣言中のことだったと思いますが、テレビのニュースがこのように言うのを聞いた憶えがあります。
 
作品名:端数報告3 作家名:島田信之