ドラクエユアストーリーを肯定したい
私はこの小説版の存在を知った時、胸が躍ったのを覚えている。子供の頃から思いを馳せていたドラクエの世界を、文字によって濃密に味わうことが出来るのかと思うと一刻と早く手に入れたいと焦ってしまい、とうとう全巻買い揃えて何度も読み漁ったものだった。なので、Ⅲで登場したライデインやⅥの最後に出てきたマダンテの詠唱は今でもそらで唱える事が出来たりする。
だがここで大きく明記しておきたい事がある。実はロト三部作の著者は脚本家が本業で文体がやや台本チックだとか(逆に余計な描写がなく真っ当なファンタジー作品としては凄まじく洗練された名作に仕上がっている)、天空三部作の著者はⅣから巻を重ねるごとに段々と小説家としての実力が鍛え上がっており、その成長を味わう事が出来るだとか、Ⅶは初めから最後まで非常にバランスの良い、恐らく歴代で最も完成度の高い物語になっているだとか、ここでも語ろうと思うと色々と語る事が出来てしまうのだが、そんな中でも私が全巻を通じて思った事があるのだ。
即ち、物語の主人公は、自分ではないと言うこと。
小説版なのだから、当然自分ではない、作られた主人公の名前が存在する。Ⅳの勇者の名前は「けんた」でも「たろう」でもなければ「ああああ」でもない。「ユーリル」という一風変わった名前の主人公が登場する。
そして自分でない主人公が、かつて自分と旅をした筈の仲間達と共に旅をする。ユーリル達一行はあの、ドラクエ4における強敵であるキングレオに向かって、何と仲間全員(つまり八人)で突っ込んで袋叩きにする。かつて四人でパーティーを組んで挑み、何度も全滅して苦労した筈の敵が、たった一度の挑戦で比較的あっさりと破られてしまう。
それがドラクエを小説にするということ。「ドラクエを他の媒体にする」という事なのだろうと、私は思っている。
そして、それは今回にも言える事だ。
「ドラクエを映画にする」。この時点で、既にその作品は我々がそれぞれ心の中に持つドラクエの物語とは違う、違和感満載の全く別の物語が展開される……それは至極当たり前の話なのである。
だからこそ、私はドラクエが映画化されるというニュースを耳にした時、「尺が削れてコレジャナイ感は出るな」という事を既に覚悟していたのである。恐らくこの「少年時代カット」に関する多くの意見と私の意見に差が出た理由はここにあると思っている。
だが面白いことに、これがファイナルファンタジーや、テイルズ等の作品の映画化であったとするならば……恐らく先ほど述べた様な「コレジャナイ感への覚悟」や、それに対する否定意見は今回ほどは出なかったのではないかと、私は思う。
それこそが、いわゆるFFとドラクエの対比というか、いわゆる名作JRPGとドラクエの本質的な違いを意味しており……それこそがもう一つの否定意見である「ラストの展開」にも大きく関わってきているのではないか、と思うのである。
長くなってしまったが、続いて「ラストの展開」についてである。
これに関しては、私はがっかりするどころかむしろ心を打たれてしまったバカモノなので、映画制作陣からすれば私は格好の獲物だったと言うことになるが、そんな馬鹿の頭でも、この展開は流石に全員が全員受け入れられるはずが無いだろうなとは思っていた。
特にラスボスであるミルドラース……に寄生したコンピューターウイルス(正確には彼を作った見知らぬ誰か)による「大人になれ」はかなりファン達の心を抉ったらしく、それによる「思い出を汚された」「ファンを馬鹿にしている」等の叫びは未だにネットを探せばすぐに見つかるだろう。
だが。これはおかしいと思う。
なぜなら……なんて議論するまでもない。主人公はそれを真っ向から否定したではないか。
ゲームの中のキャラクターを愛し、ゲームの世界を愛し、その物語の中で何かを学んで生きていく。その行為自体と、大人としての責任から目を逸らしてグズついている事は、全くの別の問題であると、主人公が意志の力で削除プログラムに抗って証明してくれたではないか。
「大人になれ」と言われて凹んでしまう人間がいる時、なぜそうなってしまうかと言えば、まさしく彼等自身が所詮ゲームは、ドラクエの世界は虚構で、偽物で、何も手に入るものがなく、ただの時間の無駄遣いでしかないと自分自身で認めてしまっているからではないのか。「ゲームを肯定すると言う構成自体が前時代的、今はゲームも文化として認められている」と言った批評も当時はあったと思うが、もし本当にゲームが立派な文化ならば「ゲームをすること」=「大人になりきれていない子供がすること」という理屈にはならない筈だ。
そして他ならない私は、ドラクエをプレイする事は決して時間の無駄ではなかったと思うし、少なくとも受験時代を無駄にしても得るものはあったと思うし(ここはあまりに暴論だがw)、「大人になれ」と言われたところで多少グラつきはしながらも、ハッキリと反論する……度胸はなくとも反論できるだけの思い出を持ち合わせている自信はある。
なぜそう思うか。それは別に私の個人的な体験談によるものではない。
何故かといえば、私は一般的なJRPG(無論例外はあるが)と違って、ドラクエは「体験」するゲームだと思うからだ。
例えばファイナルファンタジー。初代やⅢなどの一部を除いて、FFでは主人公の名前が定められている。テイルズシリーズも名前を変えられる要素はあるが、ボイスでの呼び名は基本的に普遍であり、明らかにデフォルト名がキャラの記号として機能している。
小説版ドラクエの様に、主人公は明確に「自分ではない」のだ。だからこそヒロインと主人公が結びつく時、彼女は自分の恋人ではなくあくまで主人公の恋人であり、プレイヤーは彼等を見守るいわゆる神の視点としてキャラクターを操作する事になる。
だがドラクエはその点において完全に異なっている。なぜなら、もともとドラクエは海外にて流行っていた「ウィザードリィ」や「ダンジョンズ&ドラゴンズ」と言ったRPGを国内に持ち込む為の、言わばユーザーをRPGの世界に「連れ込む」為の作品だったからだ。
ファミコン時代にドラクエを特集していた「ファミコン神拳奥義大全書」という冊子の「ドラゴンクエストの正しい楽しみかた」という項目には、この様な記述がある。
「ドラゴンクエストはアクションゲームじゃない! だからアセってボタンを押すことはないんだぜっ。じっとそのまま待っていてくれてる。なんたって主人公はキミなんだから! 途中でトイレにいこーがアイスクリームをなめよーが、あるいは不眠不休でのめりこもーが、それは主人公であるキミの勝手なのだっ!」
この書籍はドラクエ初心者向けに、ゲームを一から説明する目的のものとなっているが、そこでは「キミが戦う」「キミが武器を買う」と言った様に、全て主人公=プレイヤーである事が大前提として組まれているのである。
作品名:ドラクエユアストーリーを肯定したい 作家名:ニモ船長