桜咲くころ(下) オール讀物推理小説新人賞最終候補作
奉行所の門をくぐると、文史郎は用部屋手付け同心の詰め所に入っていった。手付け同心とは、奉行直属の公用人の下で、刑事断案の調査記録を
つかさどる役職である。
詰め所では、同心たちが黙々と文机に向かって筆を動かしている。こちらを見る者はいない。こんなところにいたら息が詰まって一日ともたない。
外役でよかったと思う。
文史郎は顔見知りの若い同心を見つけ、むかしの事件を調べたいと断りを入れて文庫に向かった。
重い板戸を開けると、紙と墨の匂いが鼻をついた。天井まである大きな書棚が何列も列なっている。
三十一年前の捕物帖を探しだし、何冊かをとって明かり窓のほうに持って行き、どっかと腰を下ろす。尻の下の板の間が冷たく、心地よい。
頁を繰りはじめて四半刻(三十分)もたったころ、やっと目当ての記載に突き当たった。
十二月十七日、六間堀中橋下で溺死体が上がった。死体の身元は、北森下町二丁目寿助店住まい、大工甚平。外傷などはなく、泥酔のうえ堀に落ちて
死亡したものと検分、とある。報告者である与力と同心は、文史郎の知らない名である。すでに致仕しているのだろう。
思い出して、その前の月の捕物帖を繰る。
見つけた。十一月三十日、拐かし事件の報告がある。大工甚平の子がさらわれたとある。内容は、平太から聞いたものと変わりない。シジミ売りの
声が聞こえたので、ザルを持って出、もどってきたら、赤ん坊が消えていた。
「ん?」
思わず声をあげていた。事件の報告者である同心のところに、平井嘉之助の名を見たからである。この拐かし事件を受け持ったのは、父だった。
「どういうことだ」思わず眉間に皺が寄る。
父の廻り場は、仙台堀から南の深川一帯だったはずである。北森下町はそうではない。なぜ、廻り先でもない事件に首を突っ込んでいるのだ?
嘉之助が現場に出向いたのなら、そのときおぬいと顔を合わせているはずである。しかし、おぬいは、そのことも、子どもがさらわれたことも
言わなかった。
(あのばばあ、なにを隠してやがる)
もはや、父の遺言のためでなく、みずから気持ちがおぬいに向き始めていた。
文史郎は、雪駄をつっかけるのももどかしく、待っていた与吉に声をかけた。
「与吉、おぬいの子が拐かされた事件を覚えているか。北森下町だ」
「そこは大旦那の廻り場内ではありませんし、覚えはありませんが……」
「おぬいがうちの家宝の茶碗を割ったってのはほんとうか」
「家宝の茶碗? なんのことでしょう」
やっぱりな。あのばばあ、とっちめてやらなくちゃならねえ。
「おぬいのところに行くぞ」
「へい」
奉行所を出ると、大門の門番所の前を行ったり来たりしていた男が、文史郎を見て駆け寄ってきた。
「旦那」
岡っ引きの源八だった。
「おう、どうしたい」
「おぬいが消えちまいました」
自身番のまえでおろおろしながら待っていた長兵衛が、文史郎を見ると言った。
「旦那、どうしましょう」
「おぬいが消えたって?」
「そうなんです、神隠しみたいにぽっと」
「また神隠しかい」
「……またといいますと?」
「こっちのことだ。消えたのはいつだ」
「昨日の六ツ半(午後七時)ごろのようです」
隣の家の銀三が酒をやりながら舐める味噌を借りて皿を返しに行ったら、もういなかったという。今朝になっても姿がないので、長兵衛に知らせて
来たのだ。
木戸番の話では、六ツ半過ぎから今朝まで、人の出入りはなかったという。
源八とともに、おぬいの家に走る。
無人の部屋は薄暗くひっそりとしていた。窓を開けて明かりを入れる。部屋はきちんと片づいていて、争ったようすはない。
足先になにかが触れた。朱色の塗り箸だった。おぬいが髪に挿していたものだ。誰かと揉み合ったとき落ちたか?
壁際の衣桁が目に入ったとたん、文史郎の中で閃光のようなものが奔った。部屋を見回す。ない。着物がない。花筏の着物はどこだ?
あと二、三日といっていたから、
もう仕上がっているはずだ。
「じいさん、おぬいの出入りしている店は日本橋の近江屋といったな」
「さようですが」
「源八、行くぞ」
「あの、旦那、おぬいさんは……」
心配げに訊く長兵衛に、何かあったらすぐ報せろと言いおいて、飛び出した。
「またこれだ…」
長兵衛のぼやきが小さく聞こえた。
通町通りにある近江屋は、客の応対に忙しく、繁盛しているようだった。
文史郎と源八は裏に回り、女中に店の者を呼んでくるよう言いつけた。十手持ちが店先で聞き取りをしては商いに障るだろうと気遣かったのである。
やがて勝手口から出てきたのは、若い男だった。腰を折り、不安げな顔で二人を見る。
「手代の者でございますが、なにか……」
「忙しいところすまねえ。八丁堀だ。つかぬことを訊ねるが、蛤町のおぬいを知ってるな?」
「はい……」
「昨日か今日にも、着物を届けることになっていたと思うんだが」
手代は大きくうなずいた。
「昨日の夕刻の約束だったんでございます。それがいっこうに届きませんので、今朝方、使いの者をやったのですが」
「ということは、まだ届いてねえんだな?」
「はい。こんなことははじめてで。先ほどからお客様もお待ちで、思案に暮れております」
「出直してもらえ。今日は届かねえ」
「さようなんですか?」
「ちょいとわけありだ。こんどだけ大目に見てやってくれ」
「いったいどういう……」
手代が訊いたときには、文史郎はもう背中を向けて歩き出していた。
仕上がったはずの着物は部屋からなくなっていたが、近江屋に届けられたわけではなかった。
文史郎がおぬいの家を訪ねたのは、三日前である。そのときには、これといって不穏の兆しはなかった。文史郎がおぬいの過去に疑念を抱いたのは
つい先刻のことだし、雲隠れする理由はない。やはり拐かしかもしれない。
源八がうしろから声をかけてきた。
「旦那、さっき長屋の裏を調べたとき、囲い塀の板が一か所破れていました」
「そこから連れ出したか」
「裏は堀川です。船を使えば木戸を通らずにすみます」
「声を出すなと刃物でもちらつかせりゃ、長屋の者にも気づかれねえ。そうなると、一人じゃねえな」
「船の漕ぎ手と、おぬいを押さえつけている者と」
「しかし、なんのためにそんなこみ入ったことをする。ただの針妙だぞ」
「そういえば旦那、このことと引っかかりねえかもしれませんが……」
「なんでえ」
「下っ引きの平太が言ってたんですが、おぬいのことを調べているとき、思いがけない名前を耳にしたそうで」
「誰だ」
「おぬいの亭主の甚平というやつは、若い頃からかなりのワルだったらしく、町のごろつきとよくつるんでいたそうです。そのごろつき仲間に甚平を
誘いこんだ男というのが……」
「知ってる名前か」
「弥三郎です」
「なにい?」埃っぽい通町通りの雑踏に、文史郎の声がとどろいた。「ついせんだって八丈島から帰ってきた、あの弥三郎か?」
「へい、あの弥三郎です」
うなずいた源八の眼差しは険しかった。
おぬいが消えて二日たったが、行方は杳として知れない。
小者の与吉を源八のところにやって、話があるのでお多福で会いたいと伝えた。
作品名:桜咲くころ(下) オール讀物推理小説新人賞最終候補作 作家名:加藤竜士