Ravenhead
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― 月曜日 朝六時半 ―
朝戸里緒菜は先月、二十八歳を迎えた。初春の肌寒い朝の空気は冷蔵庫から出したばかりのように手つかずで、町に人影はない。手足の感覚はまだ鈍く、馴染んでいない服が体の上でばたついている。川沿いの土手から見える線路の上を電車が往復し始めているが、ラッシュ時には遠い。ワイヤレスのイヤホンが耳に入り込む位置を調節すると、里緒菜は少しペースを上げた。久々の帰省な上に、公休を取っているのだから、ゆっくり寝たらどうかと父に言われた。しかし、毎朝のジョギングでリズムを作っていると、その規律正しい生活が表情になって現れる。そしてそれが、法律を人に守らせる説得力を生む。交通取り締まりは、警察官の中でも特に人に嫌がられる仕事だ。しかし、高度な運転テクニックを持つ白バイ隊員は、ドライバーの宿敵でありながら、崇められてもいる。それを志したのは、十七歳のときだった。当時は原付免許しか持っていなかったし、自分が将来どのような仕事に就くかということも、ぼんやりとしか考えていなかった。背中を押したのは、六歳年上の兄が大卒枠で警察官に採用されたこと。数年後に同じ道を辿り、交通機動隊の白バイ隊員の妹として、保安課の風紀第一係に属する兄と共に、去年の広報誌にセットで掲載された。朝戸家は、警官一家だ。父はもうすぐ定年するが、古き良き交番の『おまわりさん』をしている。里緒菜は、高校時代に走っていたコースを辿り、通学路の橋を通って反対側の住宅街に渡った。流れの緩やかな川を挟みこむように立ち並ぶ住宅街と、黒川高校の先にある大きな煙突。昔は煙が上がっていたが、今は稼働していない。その近くには商店街とやや治安の悪い繁華街があって、当時は絶対に近寄ってはいけないと言われた。それが今は『ディープスポット』として、雑誌で紹介されたりしている。一本数十円の串焼きが名物の店は、色々な客を迎え入れているが、数十円の串焼きを食べてみたいだけの人間と、それしか食べられない人間が肩を並べて飲むと、余計なトラブルは避けられない。世の中には、混ざってはいけない人間がいる。里緒菜は足を止めて、首をぐるりと回した。遠くでサイレンが聞こえる。
竹田家で最初に鳴るアラームは、六時四十五分にセットされている。夫の高雄のためのもので、最も音が小さい。次は七時ちょうどで、妻のあゆみが起きる。朝が弱いから、音は違う部屋で眠る息子の克之を起こしてしまうぐらいに大きい。七時半に起きれば十分間に合う克之は、私立山瀬小学校の三年生で、早めに起きてしまった時間は、猫のコテツと遊ぶ時間に費やしている。コテツは三歳のスコティッシュフォールドで、家の人間がばたばたと朝の準備をするのを、キャットタワーから観察している。サイレンの音で目が開いた高雄は、焦点の合わない目で時計を眺めた。六時三十五分。十分早く起こされてしまった。そう思いながら背を向けて眠るあゆみの方を見たが、鼓膜も熟睡しているように動かない。足元で丸まっているコテツも、耳を動かしてはいるものの、目は開く気配がなかった。高雄はゆっくりと起き出すと、寝室から出て洗面所に向かった。廊下で寝癖のついた克之と鉢合わせして足を止め、敬礼するように手を挙げた。眠そうにしながらも、付き合うように片手を挙げて応じた克之は、今年に入ってから、ひとりで寝るようになった。ただ、週に一日だけは、寂しがるあゆみの交渉に負けて、一緒に寝ている。いびきの評判がすこぶる悪い高雄は、誘われたことがない。
「おはよう、サイレンで目覚めたんちゃう」
高雄が言うと、克之は目を大きく開きながらうなずいた。
「うん。あれって、パトカー?」
「せやな。パトカーやと思う。もう何台か来たな」
サイレンの音が重なり合って、その中に救急車が混ざっている。高級住宅街であるこの辺りへ来ることは、滅多にない。工業地帯の方に向かっているようにも聞こえる。克之は寝室に向かって首を伸ばした。
「コテツ起きてる?」
「耳だけな」
高雄はそう言って、笑った。克之は、サイレンで驚いて目を見開くコテツの姿を、カメラに収めたいのだろう。竹田家のささやかな趣味。それは、コテツを中心とした動画配信。『コテツ日記』という名前で、広告はつけておらず、純粋に撮った動画を公開するか、ライブ配信するかのどちらかだ。特にライブ配信はリアルタイムで、猫だけでなく家の間取りまで、様々な誉め言葉が届く。
三十八歳の高雄と、二歳年下のあゆみ。カメラ映えするのは当然後者だが、あゆみは『あんな器用にしゃべられへん』と言って、積極的には参加しようとしない。それでも、パジャマ姿のあゆみが映り込んだときは再生回数が一気に伸びたから、機嫌が良さそうなときは発言を促している。
メッセージが次々に届く。一件目は、『おはよー』で、二件目は『おはよー?』。そこまで読んだところで、霧鞘真由は大きな目をゆっくりと瞬きさせて、見開こうとしたが、全身の力を込めても目には伝わらなかった。六時三十五分。本当なら、八時前に起きても黒川高校の正門を余裕でくぐれる。外気と花粉をオーラのように纏ったまま席について、数人がくしゃみをするのを申し訳なさそうにするまでが、朝のお決まりのパターン。霧鞘はどうにかロック画面を解除すると、半分しか開いていない目をさらに細めて、返信を打ち込んだ。
『起こしてくれて、ありがと。おやすみー』
『えー、あんたって子は。昨日の決意はどうなったん』
メッセージの相手は、門森杏樹。小学校のときからの付き合いで、共に黒川高校の一年生。同じクラスだとわかったときは、お互い嬉しさのあまり飛び跳ねて、その場にいた全員の注目を浴びた。耳がパトカーのサイレン音を捉えて、霧鞘は少しだけ目を大きく開くと、しばらく耳を澄ませた。結構な台数。
『パトカー聞こえる? どうぞ』
メッセージを打つと、会話をしているような速さで返事が届いた。
『無線ちゃうから。サイレン? わからん』
『事件かも。怖さのあまり二度寝していいよね?』
霧鞘は毛布からはみ出して氷のように冷え切った左足を引き寄せると、布団の中で丸まった。
『事件、関係なくない?』
早起きして、宿題をこなしてから登校するという計画は潰れつつある。返信を考えていると、門森から追加でメッセージが届いた。
『わたし、三十分早く着いとくから。一緒にやろうよ』
『えー、いいの?』
華奢な体格に、百六十センチ程度の背丈で、門森が眼鏡をかけている以外は、担任ですら後ろ姿を見間違うぐらいに、二人は似ている。しかし中身は正反対で、後先を考えない霧鞘が転ぶ寸前で、門森がその手を掴んで引き戻すのが常になっていた。
『ありがと。杏樹のために、わたし起きてみせるから』