夕日に輝く
「お上手ですね」
河原の土手に腰掛けてスケッチブックを広げていた貞明は、驚いて思わずスケッチブックを膝から落としそうになった。
振り向くと、くりくりっとした、好奇心に満ちた快活そうな瞳がスケッチブックを覗き込んでいた、セーラー服の胸にこの近くにある女子高の校章がプリントされている。
「あ、ごめんなさい! 脅かすつもりはなかったんです」
「あ、いや、いいんだ、夢中になっていたので気配に気づかなかったよ」
「でも……本当にお上手ですね」
「それほどのものでも……」
貞明が描いていたのは夕日を浴びて暮れなずむ街が、オレンジ色に輝く川面に映っている風景。
通学路の見慣れたはずの風景が夕日に照らされて輝いていたのに魅せられて、いつも持ち歩いている小ぶりのスケッチブックに鉛筆でスケッチしていたのだ。
「でも、白黒なのに夕日に照らされた風景だってわかります、私も夕日に照らされたこの風景、大好きなんです」
「そうだね、見慣れたはずの風景が違って見えたので思わず描いていたんだ……良かったら上げようか?」
「え~っ? 本当に?」
「うん、でももう少しだけ待ってもらえるかな……まだ描きかけだから」
「はい、描き終わるまで待ちます、隣に座っても良いですか?」
「どうぞ……」
改めて少女を見る。
少し小柄な部類で、何か運動でもしているのだろうか締まった体つき、くりくりっとした瞳と相まって、小柄な体に好奇心と元気をギュッと詰め込んだような印象、高めの位置で縛ったポニーテールがその雰囲気に良く似合っている。
「はい……どうぞ」
夕日がすっかり落ち切るのを頃あいとして、貞明は鉛筆を持つ手を止めて描き上げた絵を少女に見せた。
「わぁ、素敵! ありがとうございます!」
貞明がスケッチブックを破いて手渡すと、少女は鞄からノートを取り出して絵を大事そうに挟み、丁寧に鞄にしまった。
その姿を見ながら、貞明はこの少女にまた会いたいな、と思い、一計を案じた。
「明日か、あさってても良いんだけど、このくらいの時間にここに来れる?」
「ええ、明日でも良いですけど……」
「君を描いてみたいんだけど、どうかな?」
「え~っ? あたしですかぁ? モデルになるほど可愛くないですよぉ」
「そんなことないよ、描いてみたいな」
「そうですか?……じゃあ、明日もここで」
「あ、僕は川上貞明、〇〇美大に通ってるんだ」
「あたしは島田淑子、よしは淑女の淑です、淑女ってタイプじゃないですけど」
そう言って輝くような笑顔を見せた。
翌日、同じ場所で貞明は淑子を描いた。
夕日に照らされて遠くを見つめるような表情……物思いにふけっているような表情ではない、遠くにある何かを見つけようとしているかのような力のある瞳が輝いている、貞明はすっかり魅せられながら鉛筆を走らせた。
「はい、出来たよ」
「これも頂けるんですか?」
「あ……でもこれを上げちゃうと僕の分がなくなっちゃうな……」
「……だったら……良かったら明日も……」
「うん、明日も、ぜひ……」
その瞬間、二人は恋人同士となった。
貞明の画力は大学でもトップクラスだ。
だが、強烈な個性には欠けている。
元より穏やかで常識ある性格、きらりと光る感性は持っているが、ひと目見てアッと驚くような作品をものにするような想像力は持ち合わせていないのだ。
美大は優秀な成績で卒業したが、画だけで食べて行くには程遠く、中学の美術教師をしながら画家としての一本立ちを目指した。
淑子はそんな貞明の一番の理解者、短大を卒業して二年後、二人は結婚したが、相変わらず貞明の画は売れない。
だが、結婚して二年目のこと。
大きな展覧会で入選したのをきっかけに、貞明は教師を辞して画一本に打ち込む決心をした、淑子もそんな貞明の決心を聞いて力いっぱい背中を押してくれた。
しかし、意気込みと結果は必ずしも一致しない、画は思うように売れず、生活は苦しかった。
「五回目の結婚記念日だけど、何も買ってあげられないから……」
貞明が差し出したのは淑子を描いた画、あの日夕日がさす土手で高校生時代の淑子を描いたスケッチを基に油絵として完成させたものだ。
「何よりのプレゼントよ」
淑子はそれを胸に抱きしめて喜んだ……が……数日後……。
「ごめんなさい、あの画を売っちゃった」
「え?」
「せっかく描いてもらったんだけど……お家賃が溜まってて……」
「そうか……いいよ、淑子に上げた画だから自由にしていいんだ……淑子の分はまた描いてあげるから」
「本当にごめんなさい」
「淑子が謝ることなんてないさ、僕がちゃんと稼いでいないのが悪いんだからね……」
淑子は画一本でやって行こうと決心した時背中を押してくれた、とは言え、自分の夢のために淑子を犠牲にしてはいけない……そう思った貞明はまた美術教師の口を探し始めたのだが……。
一寸先は闇とも言うが、どこから光が射して来るのかもまたわからないものだ。
淑子が売ったせいで世に出た画、それを目に止めた画商が貞明の画を何枚か買ってくれた上に、新作の注文までくれたのだ。
元より画力には定評がある、そして強烈な個性やアッと驚くような想像力を働かせた画だけが売れると言うものでもない。
穏やかだがきらりと光る感性と、それを余すことなくキャンバス上に表現できる画力……一般に広く名が売れるようなことはなかったが、貞明は美術愛好家の間では高く評価され、描けばそれなりの高値ですぐさま売れるようになった。
そして貞明は教師として時間を費やすことなく画一本でそれなりに裕福に暮らして行けるようになった。
淑子との間に子供は出来なかったが、スケッチを兼ねた旅行には必ず同行した。
貞明が目をとめてスケッチする時、淑子も貞明と同じ景色を眺めながらそばに寄り添う……二人の間には幸せな時が流れて行った。
だが、その幸せは長くは続かなかった。
結婚して十五年、淑子三十七歳の時、病魔が彼女を襲い、あっという間に貞明の元から奪い去ってしまったのだ。
失意の貞明はしばらく絵筆をとる意欲を失ってしまったが、あることをきっかけにして立ち直ることができた。
十年前、生活が苦しい中で淑子に贈った画、淑子がそれを売却したせいで世に出て、貞明が画家として一本立ちするきっかけを作ってくれた画、貞明はそれを買い戻したのだ。
それ以後、貞明はまたコンスタントに描き始め、それからの三十年で画家としての地位も地道に固めて来た。
貞明を世に出してくれた画商は既に亡くなってしまっていたが、彼の画廊は息子が引き継いで今でも貞明の画を扱ってくれている。
そして彼が貞明の新作を受け取りにやって来た時、ふとこんなことを言った。
「そう言えば……奥様を描かれたあの画はどうなさっているのですか?」
「もちろん今でも手元にありますよ」
「久しぶりに拝見出来ますか? 父もあの画は売らずに長く画廊に飾っていたので、私も毎日のように見ていたのですよ」
「そうですか、このアトリエには置いていません、居間に掛けてあるんですよ……どうぞ、こちらへ」
貞明に案内されて居間に入った画商は驚きで声を失った。
河原の土手に腰掛けてスケッチブックを広げていた貞明は、驚いて思わずスケッチブックを膝から落としそうになった。
振り向くと、くりくりっとした、好奇心に満ちた快活そうな瞳がスケッチブックを覗き込んでいた、セーラー服の胸にこの近くにある女子高の校章がプリントされている。
「あ、ごめんなさい! 脅かすつもりはなかったんです」
「あ、いや、いいんだ、夢中になっていたので気配に気づかなかったよ」
「でも……本当にお上手ですね」
「それほどのものでも……」
貞明が描いていたのは夕日を浴びて暮れなずむ街が、オレンジ色に輝く川面に映っている風景。
通学路の見慣れたはずの風景が夕日に照らされて輝いていたのに魅せられて、いつも持ち歩いている小ぶりのスケッチブックに鉛筆でスケッチしていたのだ。
「でも、白黒なのに夕日に照らされた風景だってわかります、私も夕日に照らされたこの風景、大好きなんです」
「そうだね、見慣れたはずの風景が違って見えたので思わず描いていたんだ……良かったら上げようか?」
「え~っ? 本当に?」
「うん、でももう少しだけ待ってもらえるかな……まだ描きかけだから」
「はい、描き終わるまで待ちます、隣に座っても良いですか?」
「どうぞ……」
改めて少女を見る。
少し小柄な部類で、何か運動でもしているのだろうか締まった体つき、くりくりっとした瞳と相まって、小柄な体に好奇心と元気をギュッと詰め込んだような印象、高めの位置で縛ったポニーテールがその雰囲気に良く似合っている。
「はい……どうぞ」
夕日がすっかり落ち切るのを頃あいとして、貞明は鉛筆を持つ手を止めて描き上げた絵を少女に見せた。
「わぁ、素敵! ありがとうございます!」
貞明がスケッチブックを破いて手渡すと、少女は鞄からノートを取り出して絵を大事そうに挟み、丁寧に鞄にしまった。
その姿を見ながら、貞明はこの少女にまた会いたいな、と思い、一計を案じた。
「明日か、あさってても良いんだけど、このくらいの時間にここに来れる?」
「ええ、明日でも良いですけど……」
「君を描いてみたいんだけど、どうかな?」
「え~っ? あたしですかぁ? モデルになるほど可愛くないですよぉ」
「そんなことないよ、描いてみたいな」
「そうですか?……じゃあ、明日もここで」
「あ、僕は川上貞明、〇〇美大に通ってるんだ」
「あたしは島田淑子、よしは淑女の淑です、淑女ってタイプじゃないですけど」
そう言って輝くような笑顔を見せた。
翌日、同じ場所で貞明は淑子を描いた。
夕日に照らされて遠くを見つめるような表情……物思いにふけっているような表情ではない、遠くにある何かを見つけようとしているかのような力のある瞳が輝いている、貞明はすっかり魅せられながら鉛筆を走らせた。
「はい、出来たよ」
「これも頂けるんですか?」
「あ……でもこれを上げちゃうと僕の分がなくなっちゃうな……」
「……だったら……良かったら明日も……」
「うん、明日も、ぜひ……」
その瞬間、二人は恋人同士となった。
貞明の画力は大学でもトップクラスだ。
だが、強烈な個性には欠けている。
元より穏やかで常識ある性格、きらりと光る感性は持っているが、ひと目見てアッと驚くような作品をものにするような想像力は持ち合わせていないのだ。
美大は優秀な成績で卒業したが、画だけで食べて行くには程遠く、中学の美術教師をしながら画家としての一本立ちを目指した。
淑子はそんな貞明の一番の理解者、短大を卒業して二年後、二人は結婚したが、相変わらず貞明の画は売れない。
だが、結婚して二年目のこと。
大きな展覧会で入選したのをきっかけに、貞明は教師を辞して画一本に打ち込む決心をした、淑子もそんな貞明の決心を聞いて力いっぱい背中を押してくれた。
しかし、意気込みと結果は必ずしも一致しない、画は思うように売れず、生活は苦しかった。
「五回目の結婚記念日だけど、何も買ってあげられないから……」
貞明が差し出したのは淑子を描いた画、あの日夕日がさす土手で高校生時代の淑子を描いたスケッチを基に油絵として完成させたものだ。
「何よりのプレゼントよ」
淑子はそれを胸に抱きしめて喜んだ……が……数日後……。
「ごめんなさい、あの画を売っちゃった」
「え?」
「せっかく描いてもらったんだけど……お家賃が溜まってて……」
「そうか……いいよ、淑子に上げた画だから自由にしていいんだ……淑子の分はまた描いてあげるから」
「本当にごめんなさい」
「淑子が謝ることなんてないさ、僕がちゃんと稼いでいないのが悪いんだからね……」
淑子は画一本でやって行こうと決心した時背中を押してくれた、とは言え、自分の夢のために淑子を犠牲にしてはいけない……そう思った貞明はまた美術教師の口を探し始めたのだが……。
一寸先は闇とも言うが、どこから光が射して来るのかもまたわからないものだ。
淑子が売ったせいで世に出た画、それを目に止めた画商が貞明の画を何枚か買ってくれた上に、新作の注文までくれたのだ。
元より画力には定評がある、そして強烈な個性やアッと驚くような想像力を働かせた画だけが売れると言うものでもない。
穏やかだがきらりと光る感性と、それを余すことなくキャンバス上に表現できる画力……一般に広く名が売れるようなことはなかったが、貞明は美術愛好家の間では高く評価され、描けばそれなりの高値ですぐさま売れるようになった。
そして貞明は教師として時間を費やすことなく画一本でそれなりに裕福に暮らして行けるようになった。
淑子との間に子供は出来なかったが、スケッチを兼ねた旅行には必ず同行した。
貞明が目をとめてスケッチする時、淑子も貞明と同じ景色を眺めながらそばに寄り添う……二人の間には幸せな時が流れて行った。
だが、その幸せは長くは続かなかった。
結婚して十五年、淑子三十七歳の時、病魔が彼女を襲い、あっという間に貞明の元から奪い去ってしまったのだ。
失意の貞明はしばらく絵筆をとる意欲を失ってしまったが、あることをきっかけにして立ち直ることができた。
十年前、生活が苦しい中で淑子に贈った画、淑子がそれを売却したせいで世に出て、貞明が画家として一本立ちするきっかけを作ってくれた画、貞明はそれを買い戻したのだ。
それ以後、貞明はまたコンスタントに描き始め、それからの三十年で画家としての地位も地道に固めて来た。
貞明を世に出してくれた画商は既に亡くなってしまっていたが、彼の画廊は息子が引き継いで今でも貞明の画を扱ってくれている。
そして彼が貞明の新作を受け取りにやって来た時、ふとこんなことを言った。
「そう言えば……奥様を描かれたあの画はどうなさっているのですか?」
「もちろん今でも手元にありますよ」
「久しぶりに拝見出来ますか? 父もあの画は売らずに長く画廊に飾っていたので、私も毎日のように見ていたのですよ」
「そうですか、このアトリエには置いていません、居間に掛けてあるんですよ……どうぞ、こちらへ」
貞明に案内されて居間に入った画商は驚きで声を失った。