火曜日の幻想譚 Ⅱ
165.握真
とある村に、小さなお寺がありました。そのお寺の住職は、見た目はみすぼらしいおじいさんでしたが、とても徳の高いお坊さんでした。
ある月がきれいな深夜のこと。ふわふわと頼りなさそうに飛びながら、お寺に一人の悪魔がやってきます。浅黒い肌、禍々しい角、嫌らしい目つき、こうもりのような羽根、長く伸びた尻尾、大きなフォーク状の武器。どこをとっても正真正銘の悪魔です。
「住職、住職。起きてください」
悪魔は寝ている住職を、布団の上から揺り動かして起こそうとします。
「ううん。お主は誰じゃ?」
住職は布団から体を起こし、肌の黒い悪魔を寝ぼけまなこで眺めます。
「悪魔をやっている者です。住職に聞きたいことがあってやってきました」
「ほう。それは、殊勝なことじゃ。して、どんなことじゃ?」
和尚は、悪魔に座布団を出し、お茶を出して話を聞こうとします。
「私のような悪魔でも、仏になれるものでしょうか」
「ほう、お主。仏になりたいのか」
「ええ。もう悪魔には飽き飽きしてしまいました。だって、人間の方がよほど悪いことを思いつくんですから。これじゃ、やりがいもないし、商売あがったりです」
「あはは。なるほど、最近はみな知恵をつけとるからな。あながち間違っていないかもしれんの」
住職は、腕を組んでしばらく考え込み、しばらくして、真面目な声で悪魔に伝えます。
「お主、本当に仏になりたいか?」
「もちろんです」
「人が仏になるよりもはるかに厳しい修業が待っているかもしれんが、それでもか?」
「やり遂げて見せます」
「そうか、ではこの寺に坊主として住むがよい」
「ありがとうございます」
こうして、悪魔は寺の坊主となり、住職の元で暮らすようになりました。
悪魔は住職の言いつけをちゃんと守り、厳しい修業にも耐える生活を送っていました。しかし腹の底では、全く別のことを考えていたのです。
(機会が来るまで忠実なふりをして、いつか住職を裏切ってやろう)
こう考え、その時期が来るのを虎視眈々と狙っていたのです。
悪魔が寺で生活するようになってから、数年が経った冬のこと。この村を大寒波が襲いかかりました。大雪で誰も街に出ることができず、強風が家を破壊します。挙句の果てには、凍え死んでしまう者も出始める始末。困った村の者は、住職にこの災害をどうにかしてもらうようお願いしました。
「握真(あくしん)よ。この寒波、お主の力で静めて見せよ」
握真と法名を付けられた元悪魔は、その指示に頷きます。しかし、住職に見えぬ場所でにやりと笑いました。
(悪魔の力を用いれば、こんな寒波を止めるなどたやすい。だが、ここが裏切るチャンスだ)
そう考えた握真は、己の力を使うことをしなかったのです。
数日後、寒波がおさまらない村の者は、怒りのあまり住職の家に押しかけました。そして住職を人柱にしてこの災害を治めると言い出し、住職を力づくで連れていこうとするのです。縛についた住職は、握真に向かって言いました。
「握真よ。まだまだ、仏の座より悪魔の舌の方が近いようじゃのう」
心の中であざ笑っていた握真は、これを聞いてハッとしました。
住職は、自分が寒波を静める力を持っていることも、それを使わなかったことも知っていたのです。そして、自分がその力を使わなかった時にどうなってしまうかということも。なんという心がけなのでしょう。かつて悪魔だった自分を信じて、自らの命まで懸けてくれるなんて……。握真はそれがわかった瞬間、激しく後悔して住職に追いすがろうとしました。しかし村人たちに足蹴にされ、それはかないません。住職は縄に縛られ連れて行かれ、人柱にされてしまいました。
その後の握真の行方は誰も知りません。一説には、心を入れ替えて仏の道を求める菩薩になったとありますが、ある一説では、人間の業の深さに怒りを覚え、神をも恐れぬ大悪魔になったとも伝えられています。