自殺をしようとした知人の話
これは私にとっての、とある知人についてのお話です
彼は生来体が弱く、体調を崩しがちでした。子供の頃から、元気に辺りを駆け回る他の子供達を見て「いいなあ」と思い、内心羨ましがっていたほどです。
彼には幾つか持病がありましたが、中でも本人が気にしていたのは皮膚系の持病でした。目に見えて肌荒れが表れるだけならまだしも、酷いときは背中や太腿を虫が這っているかのような痒さや気持ち悪さに苦しんでいました。
子供の頃からそうした症状と付き合っていた彼は、大人になればきっと良くなるという希望を持って耐えていましたが、大学生として一人暮らしを始めて二年が経ち、二十歳になっても症状は良くなるどころか、時期によっては人前に出られないほどに醜く悪化することもありました。一時的に体調が良くなっても少し時期が過ぎれば、再び苦しいだけの日々が始まりました。
そんな長く続く苦痛に苛まれ続けた彼は、あるかどうかも分からない不確かな希望に見切りを付けて、二十歳くらいのある時、これ以上は耐えることを止めようと思いました。人並みに趣味や嗜好は持ち、生きたいという気持ちはありましたが、強い苦しみに耐えてまでそうしたいとは思えませんでした。
そして比較的体調の良い時期である秋頃、鞄の中に買ったロープを入れた彼は故郷に帰りました。そして家人が出払った時を見計らって、椅子に乗って天井の柱に縄を括り、手で持った縄の輪っかの中に自分の首を入れたまま足下の椅子を蹴りました。その時、本人は死ぬつもりでした。あわよくば生きようとは思っていませんでした。故郷に帰った理由も単純に自分が死んだ後の遺体などの処理が簡単に行われるだろうと考えたからであって、愛郷心があったわけでも、特に好きでもない家族に会いたいと思ったわけでもありませんでした。
彼は事前に自殺する方法を調べ、直前においても冷静でいたつもりでしたが、やはり内心では慌てていたのかもしれません。彼は縄を持った右手の指を輪から抜かないままに椅子を蹴ってしまっていました。結果として首を絞めるはずの縄と首の間に挟まった数本の指の肉と骨が緩衝材の役目を果たし、縄が首を絞める力が分散してしまって首が上手く絞まりませんでした。
それでもある程度は強い力が掛かるので気管が狭まり、自らの口からまるで重い喘息の発作症状のような音がしました。思いがけない状況に慌てる彼は、縄から指を抜こうとしますが宙に浮いた自分の体重が掛かっているので中々抜けません。そうしている間に段々と首が締め付けられる生殺しのような苦痛に耐えられなくなった彼は、とりあえずこの状況を抜け出そうと頭上から垂れている縄を左手で掴んで懸垂のようにして左腕に力を入れました。
そうすると僅かですが首が絞まる力は弱まり、ほんの少しだけ息が出来るようになりました。そうして出来た合間に、身をよじるように動かすことで吊られた体を揺らして偶然近くに置いてあった台の上へ必死に伸ばした片足を何とか乗せることが出来ました。それからもう一方の足も乗せることで体重を預けた彼は首の縄を緩めて、首を締め付けていたそれを解くことが出来ました。
まだ震える足を台から床に下ろして荒い息を吐く彼の首や指からは、縄で強く擦れて血が滲み、ひりひりと痛んでいました。そんな中で彼が思ったことは、死ぬと言うことは自らが思った以上に苦しいのだということでした。比較的苦痛が少ないとされる首吊りの未遂ですらこんなに苦しく、それが想像よりも激しいことを知った彼は、一度失敗したからといって再びすぐに自殺を試みようという気にはなれませんでした。
死ぬことがこんなに苦しいのならば他の辛いことを我慢して、もうちょっとだけ頑張ってみようかなという気持ちになりました。彼は誰にも首を吊ろうとしたことを言わず、その日の内に元の自身の生活へと戻っていきました。
彼本人は単に自殺に失敗して苦しんだことでそれを恐れるようになったというだけであって、特に心変わりというほどのことはしていません。しかし苦難に直面して心が挫けそうになっても、当時の死にかけた苦痛を時折に思い出しながら、どれ程生きることが苦しくとも死ぬことはもっと苦しいのだと思い、それから数年経った今でも何とか生き長らえているそうです。
後になって考えれば、自殺が未遂に終わったのはいくつもの偶然などが重なったからでした。もし彼が不注意にも縄と首の間に手を挟んだまま椅子を蹴らなければ、もし近くに足を乗せる台が無ければ、もし少しでも首を吊る縄を掛ける位置がずれていたら、当時に重なった偶然がどれか一つでも欠けていれば彼の自殺は未遂では終わらなかったでしょう。
空想的な考え方をすれば、この世を去ろうとしていたその人の背中を、まるで目に見えぬ何かの手が摘まんで止めていたかのようであり、生きることを諦めるにはまだ早いのだと、そう言ってくれたかのようにも思えます。
人はよく「死にたい」と思ったり言ったりするようですが、今生きている自分の体を殺すということは、おそらく多くの人が思っているよりもずっと辛くて苦しいものであるはずです。
仮に誰かがどれほど死にたいと思った所で、そんな死にたがりを生かすためにその人の体中の細胞は今も一生懸命に働いています。それを無理矢理に止めようというのですから、それがとても苦しいことは当たり前のことなのでしょう。
自らの生死を決めることは各人の自由であり、私にはそれを止める意図はありません。その人の命はその人だけのものなのですから、それを当人がどのように扱おうとも構わないとも思います。ですが、もし自死を考える人がいれば、せめてかつての彼のように自殺をしながら「こんなに死ぬことが苦しいのならば、もう少し頑張れば良かった」と後悔だけはしないように、しっかり自分自身の気持ちと向き合うことをおすすめします。
私は、生きてさえいればいいことがあるとは思いません。生きているからこそ苦しみ、時に死んだ方が楽になれると思うことだってあるかもしれません。
ちょっとした考え方などの問題などではなく、失業や貧困に追いやられた上に頼れる人もものも無く、助かりたいと必死に伸ばした手をあらゆるものから撥ね除けられてどれほど生きたくとも生きられず、心の底から悔しい思いで涙を呑みながら自死を行う人も今の世の中には多くいるはずです。
残していくのは可哀想だからと家族全員で心中したり、あるいは、何よりも愛しいはずの幼い我が子の細い首を力一杯に締めて殺してから、その後に自死をしたりするお父さんやお母さんもいるでしょう。普段目にする自殺者数の数値やグラフの裏には、目を覆いたくなるほどに惨い現実が隠れています。
しかしそれでも、生きるということは決して無意味なことではないと思います。
それほどまでに苦しい思いをした人だからこそ、これからがあれば幸せに生きて欲しいと、出来ることならば同じように苦しむ他の誰かの助けになって欲しいと私は思います。
作品名:自殺をしようとした知人の話 作家名:ナナシ