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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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私が死なない理由

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五年間通っているカウンセリングで、いまだ何も話せていない。私は帰り道に、バスの吊り革に掴まっても足元がおぼつかないように何度もよろけながら、目の前を飛び去る景色を見つめていた。“それは悲しみでできている”。私にはそんな感想しか抱けない。



“でも私は死なない”。バスから降りて歩きながら、私はまた心の中でそうつぶやいた。その時には、先にある遠くの空を眺めていた。薄く薄く雲が満ちてクリームで覆われたような水色の空に、ところどころぽわぽわと丸い雲が浮かんでいた。それは地平線だけがほんの少しだけ赤くなりかけていて、もうすぐ夕焼けの訪れることを知らせている。狭い道の両端は居酒屋やパブが並び、右に並ぶ建物の向こうは、昔は堀であったのだろう狭い川が流れているはずだ。

遠く彼方から、子供が学校から帰るのにきゃっきゃと騒いでいる声や、母親が扉を開けて迎える声が聴こえた。そして、自動車がエンジンをうならせるくすんだ音の群れがある。それを包み込むように、人々が街を歩いている足音が無数に重なって、ざわめいている。そのすべてが悲しかった。


“でも私は死なない”。もう一度そう繰り返した。


しばらく歩いてからもう一度目を開けると、紅葉色を画用紙に落としたように滲む太陽がビルの途切れた地平線近くに見えた。それは上から押し潰されているように、地の底に呑み込まれたところだけが少しだけぐにゃりと歪んでいる。“ああ、地球なんだな”、と私は思って満足した。



私が死なない理由は、過去に苦しめられることに堪えられているからじゃない。地球に生きているからだ。

“ここに放たれた生命体である以上、必ずや真っ当しなければ”。

働き、遊び、眠り、屠ること。そして、自然とそれが取り上げられてしまうまで続けることが、生命を持たされた私の使命だ。私の命は私だけのものではない。私に感謝してくれる家族や友人のためでもあるけど、まず初めに、人間として努力し始める前から私を見守り続けてきた母を、裏切ることなどできるもんか。

太陽は遠すぎる。月は私の目にはあまりよく見えない。でも、大地のあたたかみだけは、いつも必ず確かだ。


そんなに大げさなことではないと多くの人は思うかもしれない。でも私の本能はそう命じ続けるのだ。



悲しみの正体についていつか話すかもしれないけど、今は私の死なない理由について話すだけに留めておこう。







End.
作品名:私が死なない理由 作家名:桐生甘太郎