私が死なない理由
「今日の調子はどうですか?」
目の前に居るのはカウンセラー。私は彼女に迎えられて、「お願いします」と声を掛け、今、席に就いたばかり。カウンセリングはこれでもう五年も続いている。
「死にたいです」
カウンセラーは少し悲しげな顔をして私を見つめ、何気なくカルテに目を落とす。
木製の古い机の上にはポトスがずっと生きていた。少しの水だけを与えられて、小さなガラスの四角い箱からつるを伸ばすようにはみ出た緑の葉は、いつも目に心地よい。その机の上には分厚いカルテが広げられ、横にはティッシュの箱が置かれている。おそらく、患者が泣いた時のために。私はまだ使ったことはない。
部屋自体は少し狭く、ここはカウンセラーである横木さんの自宅にある、玄関脇の一室だった。私たちは机を挟んで座り、横木さんの後ろには本棚が三つ横並びに壁いっぱいを覆っていた。その中には、私では読めもしなさそうな、英字で題名が書かれた背表紙もちらほらと見える。
横木さんは仕事に熱心な女性らしく、長く伸ばしてはいるけど髪はあまり整えずに、化粧も眉を描いた程度の女性だ。私は化粧などする余裕はなく、いつも素顔でここまで電車に乗ってやってくる。
「どうして死にたいのかな?」
「わかりません」
横木さんの優しい問いかけにも、私は答えることはできない。たくさんあり過ぎて、もはやどれなのか分からなくなってしまってから、もう十七年になる。悲しいことが多すぎたのだ。
「そう…でも、何か苦しいのよね」
何かをカルテに書きつけてから、横木さんはまたこちらを見つめる。私はすぐに目を逸らした。人の目を見るのは怖い。何か責められている気がして。そんなのは迷妄だと分かっていても、これをやめることができない。私はそれからうつむいて、しばらくぼーっと机に表れている年輪の数を数えた。なんの意味もない単純なその作業が、少しずつ心を鎮めていく。
「何か…そうですね、背中に悲しみがとりついているような…」
心の中に浮かんだことをそのまま喋ると、横木さんはまたボールペンを手に取り、サラサラと短く、私には読めないほど簡略化された文字を書いた。
「悲しみ?」
「そうです」
その時、ふと心が苦しくなる。いいや、いつだって苦しみのあまりに死にたいけど、私はそれを実現させる気はない。
「悲しみに堪えている…常に。そんな気がします」
カリカリと書き心地のよさそうな紙をボールペンでなぞる音、私の静かな呼吸音、横木さんの小さなため息。それから、このマンションの外廊下を風が撫でていくひゅうひゅうという音さえ聴こえている。私が机の下でジーンズを撫でる衣擦れの音も、大きいくらいだった。圧迫感を感じるほど静かな空間に、惨い悲しみを吐き出す気になれない。私は心に浮かんだ顔と、その時言われた言葉の記憶をすぐに打ち消す。
「その悲しみは、どこから来るのかな」
横木さんのこの言葉にも私は答えられなかった。それから何度か、「悲しい」、「死にたい」、「辛い」などと、輪郭だけを口にして、自分が掴んでいるその中身について語ることはなく、カウンセリングルームを出た。