原点
右側が山、左側が谷になっていて、険しい砂利道は車体を小刻みに揺らした。道幅が比較的広かったのが唯一の救いだった。
知床五湖から約一時間車を走らせたところで、カムイワッカの滝に到着した。
野営の駐車場に車を停めて、しばらく歩くと「カムイワッカの滝」と書かれた看板が現われ、岩の斜面を水が流れていくのが見えた。
岩の斜面はかなり上の方まで続いている。どうやらここを登っていくと、温泉に浸かれる場所があるようだ。
裸足になり水の流れに足を突っ込むと、ほのかに温かい。脇にはロープがあり、滑らないようにロープを伝って登っていく。
少し登ると、岩が平たんになっている場所があって、そこに案内をするオヤジが立っていた。
オヤジのところまで到達すると、そこには小ぶりな滝つぼが出来上がっていて、そこでお湯に浸かることができた。まさに天然の温泉である。
ここで一日目に買っておいた水着がついに活用される。
カムイワッカの滝は完全な野営の天然温泉であるため、男湯も女湯もあるはずがない。
僕ともう一人は入るつもりはなかったが、見ると他三人はすでに水着に着替え始めている。無論、脱衣所などない。他の人に見られぬよう、必死に水着になる姿がなんとも面白い。
着替え終わった三人は、その小ぶりな滝つぼに溜まった温泉に浸かって、大自然に身を任せた。初めは緊張していたようであるが、徐々に開放的になっていく三人を見た。
人間も縄文時代では自然と共存し、森と共に生きていた。
縄文人が生きてきた生活の知恵や本能、大自然に対する畏怖の念や共鳴のようなものは、きっと平成を生きる僕らにも脈々と受け継がれているはずであり、それはやはり頭で理解するというよりは細胞のひとつひとつで感じるものなのだと、この三人を目にして思った。
「ピリピリしてきた」と言うので、相当に酸性が強いのだと分かった。
温泉は入らなかったが、試しに十円玉を温泉で洗ってみた。数分温泉の中で擦ると十円玉は銅本来の輝きを取り戻したのだった。何故温泉によってこれだけ成分が違ったりするのだろう。大自然というものには恐れ入る。
-釧路・羅臼-
東側に反りだした知床の角のような地形を横から真っ二つに割るように山道を通って、僕らは羅臼町に到着した。まさに漁師町というような風景がそこにあった。
空腹を覚えた僕らは道の駅「知床・らうす」で休憩することにした。二階にあるレストランに入り、僕は知床羅臼産の黒ハモ丼を注文した。
目の前の雄大な海から水揚げされた新鮮なハモは身がしっかりしていて、弾力がある。甘みのある身は、表面に塗られたタレと抜群にマッチしている。
すっかりいい気分になってしまった僕らは、一階にあるお土産屋で、海の幸を家に送ってあげようという気になった。大学生の気まぐれというやつである。
店は何店舗も立ち並んでいたが、阿部商店という店の店主の威勢の良さに捕まってしまった。
阿部商店は威勢だけでなく、味も一級品であった。試食させてもらったいくらは絶品で、相当に中身が詰まっているらしく、歯に挟んで少し力を入れただけで汁が飛び出して弾けた。
少しばかりの気持ちではあるが、そのいくらを僕は実家に郵送した。他の四人も阿部商店で何かしらを実家に送っていた。
阿部商店には若い旅の集団がよく訪れるらしく、店の奥を見ると、大学名が書かれた寄せ書きのようなものがいくつも飾ってあった。
「お兄ちゃんたちも書いていきなよ。ここに来た学生さんはみんな書いてくよ」
ここに来た証として書いておくかと軽い気持ちでいたが、書き始めるとこれがなかなか楽しくなってきてしまって、つい熱が入ってしまう。
見事僕らの大学の名を阿部商店に飾ってみせた僕らは店主と記念撮影をして、道の駅を出発し、再び車をひた走らせる。
やはり北海道の旅は移動が半分を占めており、宿に着くころには夜になっていた。
僕らは地元の回転ずしで夕飯を食べることにした。
回転ずしと言っても北海道の新鮮な海の幸を使っているためか味は確かで、それでいてなかなかにリーズナブルであった。店内はそこそこ混雑していたが、テーブル席も空いており、出迎えてくれた店員にテーブル席に座りたい旨を伝える。やはり回転ずしの醍醐味はテーブル席である。
回っていく寿司に精神年齢を幾ばくか下げられてしまった僕らは、好きなネタの寿司を取りまくったり、他の奴が取りたかったネタを先に取ったりしたりしてはしゃいでいた。
僕はその光景を客観的に見つめてみると、なんだかその時間がやけに楽しく愛おしくて感じられ、同時にこれまでの旅の情景が頭の中に流れ出した。
旅の形は様々だ。
観光名所を巡る旅、お目当てのものを買うための旅、誰かに会いに行く旅、食を楽しむ旅、景色を目に焼き付ける旅、写真を撮るための旅、その土地の文化を学ぶ旅、ただ放浪し自分と見つめ合う旅。
挙げればきりがないが、自分の中の何かしらを埋めてくれるという点については全ての旅に共通することかもしれない。
僕らはこれからも旅を続けるだろう。終わりゆく一日の片隅で僕はそんなことを思った。