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原点

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五日目



-知床五湖-
 まどろみの中でここが網走のユースホステルのベットの上であることを、徐々に頭が理解し始める。
 昨日、宗谷岬を後にした僕らは東側の海岸線を一気に南下し網走まで車を走らせた。
 当日にリザーブしたユースホステルに着いた頃には既に午後十一時を回っていて、久々にくるまったふかふかのベットでそのまま泥のように眠ってしまったのだった。
 昨夜の運転中に、車に轢かれたらしい鹿が道に倒れており、ひどく心が痛んだことが思い出された。
 僕は、夜にセイコーマートで買っておいた食パンとジャムで朝食を済ませた。
 もう少し寝ていたいなと思っているのは僕だけではないらしく、他の四人もベットに寝ころびながら天井を眺めていたり、のたうち回ってウニャウニャ言ったりしている。
 流石に五日目にもなると疲れが出始めているのかもしれない。
 それでも僕らの秘境に対する熱量は日を追うごとにどうやら強くなっているようで、眠っていたい気持ちを押しのけて、すぐにでも車を走らせなければという半ば強迫観念のような気持ちを駆り立てた。
 夜遅くに到着したにも関わらず融通を効かせてくれたユースホステルの主人に礼を告げ、車に乗り込みエンジンを駆動させる。
 エンジンがふかされた音に僕らの気持ちも猛りを覚えた。どんな獣道も厭わないと思うが、やはり北海道の道はまっすぐでとても走りやすい。
 あまりにもまっすぐな道が続くので気が付くとついついスピードを出し過ぎてしまっていることが少なくないし、たまに道路の脇から鹿やたぬきなどの動物が飛び出してくるのだから心臓に悪い。
 今日は知床を見たのちに釧路を目指す計画だ。
 この旅が始まって以来、初めて空全体が厚い雲に覆われていた。昨日まではあまりにも晴れていたので、こんな日があってもいいかもしれない。
 まずは知床の中でも有名なスポットである知床五湖を目指した。
 知床五湖は知床半島に広がる手つかずの大自然を遊歩道を散策しながら見ることができる。名前の通り五つの湖があり、それぞれに名前がついている。
 知床五湖の歩き方は高架木道か地上遊歩道の二通りがある。
 高架木道は往復約一・六キロメートルのコースで、自然の上に造られた高架を安全に大自然を見ながら歩くことができる。所要時間はだいたい四十分といったところだ。
 高架木道には電気柵が張り巡らされていて安全で、段差がないため車いすでも移動が可能である。クマに遭遇する危険性もない。
 一方、地上遊歩道は総距離は約三キロメートルで一時間程度をかけて回る。まさに地上に造られた遊歩道を歩くことができるため、知床五湖の大自然を間近に楽しむことができる。
 ただし、自然保護の観点やクマに襲われるリスクも考慮し、散策前にレクチャーを受けなければならないし、入場制限などが設けられている。
 僕らは迷わず、地上遊歩道を選んだ。
 知床五湖に到着した僕らは、入場口でチケットを購入し、トイレを済ませ、レクチャーを受けた。動物に遭遇しても餌を与えてはいけない、遊歩道を外れてはいけない等の説明があったが、やはり一番に強調されるのはクマ対策だった。
 第一に大切なことはクマに遭遇しないことだ。クマは実は臆病な動物で人がいるとわかると出てこないのだという。また、音に敏感で鈴の音や手を叩く音が聞こえると逃げていくそうだ。ただし、仮に出会ってしまった場合、臆病故に我々が後ろを向いて逃げたりして少しでも隙を見せたりすると襲い掛かってくる習性を持っている。
 出会ってしまった場合の対処法等もしっかりとレクチャーされる。実際に、つい数週間前に五湖のうちのひとつを泳いでいるヒグマの姿が目撃されているという。
 散策中に万が一クマを目撃した場合は、即座に引き返し、後から歩いてくる組の人たちにも知らせて一緒に知床五湖内から出なければならない。
 一通りレクチャーを受けた僕らは、クマに遭遇してしまう恐怖を想像してしまうことは避けられなかった。
 だが、まだ見ぬ大自然を求める僕らの足はもう止められない。
 一歩足を踏み入れると、そこは人工物の一切ない大自然の中だった。
 東京では見たことのないような木々や草花がぼうぼうと生い茂っており、時々足元には如何にも「私は毒キノコでございます」とでも言いたげな色をしたキノコが生えたりしていた。
 雷にでも打たれたのだろうか、真っ二つに裂けてしまっていたり、根元から折れてしまった木々があり、やはりここが人間の力が及ぶような場所ではないことを改めて知る。
 気が付くと左側には湖が現われていた。五湖のうちのひとつである。
 空が低く敷き詰めた雲と山の木々を映した水面は、吹き続ける風に揺れていた。
 ふと山側で何かが動いたと思った。「クマか…」と思った。
 否。それは三頭の鹿の親子だった。母親だろうか、三頭の真ん中にひときわ大きな鹿が座っており、その周りを小鹿が囲っている。
 この鹿達はここで飼われているわけでも管理されているわけでもない。完全な野生の鹿である。鹿は僕らに怯えるわけでもなく、そして興味を持っている風でもなかった。
 僕らはレクチャーを受けた通りに、手を叩いたり、歌ったりしながら遊歩道を進んだ。
 空気はひんやりと少しばかりの水分を含んでいて、透き通る空気の粒子の色が見えるようだった。
 空は曇ってはいたものの、その神秘的な自然の中にいると身も心も洗われる感覚がして、僕は木々の香りが混ざる澄んだ空気を大きく吸い込んだ。それは身体の隅々にまで行き渡り、血管の中に入り、脳に到達し、全てを浄化するようだった。
 ここでは人間の欲望も煩悩すらも効力を失ってしまうのかもしれない。
 そんなことを考えながら歩いていると、段々と周りがアフリカのような景色に変わってきて、いつの間にか目の前に木道が現れていた。高架木道に到達したようである。
 地上遊歩道を歩いているときに、何故高架木道を作る必要があるのだろうと思っていた。それは単に野生の背丈が高くなっているエリアだからという理由もあるとは思うが、自然保護の観点もあろうと、手つかずの大自然を見て思った。
 地上遊歩道を作ってしまえば、必然的に木々や野生を切り開かなければならない。しかし高架木道であれば、切り開かずに済む。
 その風景を見ていると、ここが日本であるということをつい忘れそうになってしまう。
 柵に腕を預けて眼下に広がる草木を揺らす風に吹かれると、人間の中にも眠っているであろう生命に対する共感のようなものを感じて、いつまでもそこに居られるような気がした。
 僕らは最後に「知床五湖」と書かれたプレートの前で記念撮影をし、約一時間に及ぶ知床五湖散策は終了した。

-カムイワッカの滝-
 強い風に吹かれながら知床五湖を後にし、続いて僕らはカムイワッカの滝に向かった。知床五湖のさらに奥に入るようにして山を登ると、それはある。
 カムイワッカの滝は、湧き出た強い酸性の温泉が滝になったものである。アイヌ語で「神の水」という意味を持つらしい。
 しばらく山道を車で登っていると、段々と舗装がなくなってきて、やがて砂利道となった。
作品名:原点 作家名:きよてる