はなもあらしも
第一話 はじまり
一体どういうことか。
右を見ても左を見ても人、人、人……
見た事もない人の波と活気に、那須(なす)ともえは思わず手の中の紙を握りつぶして叫んだ。
「どうしてこんなに人がたくさんいるのよーーー!!!!」
遠く安芸は三原から旅立つ事数週間。馬などに乗る金もないし、道中は親切な百姓の牛車に乗せてもらったり、山道を転がり落ちるように下りながらようやく辿り着いた江戸、こと東京。
田舎育ちのともえにとって、東京という町並みは物珍しいもので溢れ返っていた。
美味しそうな食べ物や綺麗な着物、大きな宿屋に洒落た小物屋。どこを見ても活気があって、胸が躍る。
目的地へはあと少し……のはずなのだが、如何せんあまりの人の多さに我を失い叫んでしまった。
さらには場所を示した地図を握りしめてしまい、慌てて元に戻す。
「ああ〜もうっ! 父上の地図、一体これって何時代の地図なのよっ!? 大雑把すぎて全っ然分かんないじゃない!」
虚しく街道の名前と目印らしい寺と宿の名が記されているが、それが一体どこなのかが分からない。
先ほど尋ねた所によると、街道の名前は間違っていなかったのだが、寺と宿は分からないとのことで本当の目的地はさっぱりだ。
「街道が確かあっちで……あれ? あっち? いや、こっち?」
人が縦横から流れるおかげで、ともえは方向まで見失ったようだ。
「―――ど、どうしよう」
風呂敷と一緒に肩に背負うのはやたらと細長い物体と、もう少し小降りの筒。
人目につくその荷物は、ともえにとって何よりも大切な道具だった。
その二つの荷物を肩に担ぎ直し、ともえは誰かにもう一度尋ねようと顔をあげた。
「仕方ない、もう一回誰かに聞いてみよう」
「あの、どうかされましたか?」
鈴を鳴らしたような透明感のある声にともえが振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。ひとくちに少女とはいっても、男勝りなともえとは真逆に位置するような少女だ。
長く伸ばした黒い髪を綺麗に結いあげ、品の良い桃色の紬の着物が真珠のような白い肌にとてもよく似合っている。思わずともえが見惚れていると、少女は澄んだ大きな目を不思議そうに瞬いた。
「あの、何か……?」
少女が薄紅色の唇を開いてもう一度声をかける。その言葉にともえはやっと我に返り、不躾に見つめ続けていた自分を恥じた。
「あ、ご、ごめんなさい! その……えっと」
「何かお困りのようでしたが?」
「そうなんです! 実は道に迷ってしまって……」
東京にはこんなに可愛らしい人がいるのだと、ともえは少しばかり動揺しながら手に持っていた地図をギュッと握りしめた。
「それはお困りでしょう。私で分かりますかしら……。差し支えなければ、どちらまで行かれるのかお聞きしてもよろしいですか?」
「も、もちろんです! えっと日輪道場という大きな道場があるそうなんですけど、ご存知でしょうか?」
「まぁ! 日輪道場?」
少女は丸い瞳をひと際大きく見開いて驚いた。
「あの、何か?」
その少女の反応にともえは小首を傾げながら聞き返すと、少女はにっこりと笑ってこう言った。
「日輪道場は私の双子の弟が通っている道場なんです。よろしかったらご案内させて下さいな」
「本当ですか!? 助かります! 有難うございます!」
願ってもない申し入れにともえは元気よく頭を下げた。