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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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「さよならを言うために」6~9話(完結)

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6話 美しい季節





「えっと…その…」

目の前には、とびきりのおめかしをしてきたのだろうユリが居る。僕は体が震えるほど嬉しい気持ちを隠すため、全身に力を込めて座っていた。「ハーベスト」のマスターはこちらを見ずに僕のコーヒーカップを洗っている。

「よろしくお願いします」

そう言ってユリがぺこりと頭を下げた。顔を上げたとき、彼女は恥ずかしくて堪らなさそうに真っ赤になっていた。伏し目がちで、ちらっとこちらを見たユリの大きな目は、このとき僕のものになったのだろうか。





“返事するから、会おう”というユリからのメッセージが届いたのは、家庭教師として教えに行っている子供の家に居たときだった。僕はそれで慌ててその子の家から飛び出しそうになる自分の体をイメージしてしまい、はっと辺りを見渡したのを覚えている。

「せんせい、どしたの?」

「あ、ああ、なんでもないよ。終わったかい?」

「…わかんない」

「そう。どこがわからない?ちゃんと言えるかな?そこからやってみよう」

僕はそのまま指導に戻って子供に勉強を教えていたけど、頭の中ではユリがいろいろな恰好をして僕の前に現れる想像しかしなかった。そのときの想像でユリは、「最後になるから、顔を見ておきたくて」と言ってレモン色のワンピースで僕の気持ちを退けたり、もしくはモスグリーンのジャケットで「今日から、お付き合いお願いします」と言ったりした。




ユリはいつか着ていた赤いチェックのワンピースで僕の前に座っていた。“ハーベストにしようよ。その方がいい”とユリは珍しく自分の希望を言って二人でここに来た。席に就いた初めのうちは、ユリは何も喋らずにもじもじとしていたり、そばを通ったマスターに水を頼んでいたりしたけど、やることもなくなって空白の時間が長くなると、どこか怪訝そうに僕を見て、こう喋り出した。

「“変だな”って思ったの。あのとき。だってあのレストランで文ちゃんから告白されたとき…私、“やっと来た”って思った。でもね、私、文ちゃんのことを好きで、特別待ってたってわけじゃなかった。だからちょっと自分の気持ちがわからなくて…」

テーブルに頬杖をついて、コーヒーカップの取っ手の細工をなぞるユリ。

「動揺してたよね。そういう理由だったんだ」

僕もそのとき“変だな”と思っていたけど、“変なところなんかない。君のそばにずっと僕が居た理由として思い当たるのは、普通は「恋をしている」ことくらいしかないんだから。”とも考えていた。多分、ユリは僕を純粋に信頼し、友情を持って迎えてくれていたから、僕みたいなおじさんが彼女の近くに居る不自然さは気にしていなかったんだろう。でも、心のどこかでは気づいていた。その気づきは今までの彼女には必要なかったから、知らないでいられたんだろう。

“まったく。どこまで純粋なんだろうな。”僕はそう思ってほとほと呆れたいような、もっと好きになったような、僕が彼女を守りたいような、そんな気持ちだった。でもまだユリは決定的なことは言っていない。そこでユリはちょっと気まずそうな顔をしてから、僕に答えを求めるような瞳を向けた。彼女が僕を見つめ、見上げている。

「多分ね、私、もう好きなんだと思う。でも、どうしたらいいかわからなくて…だって、元々好きじゃなかった人によ?一度告白されただけで「はいそうですか」って付き合うのって、不誠実でしょ?だから、その…でも、断れない。それで困ってるの」

そう言ってユリは、底の底まで全部白状してしまった。そして、あまつさえその決断を僕に委ねようとさえしているようだ。“おいおいこんなに上手い具合に運ぶか?”と、僕はちょっと不気味だったし、なんでもかんでも話してしまっても恥ずかしいとも思わないユリに驚いていた。どうやらユリは、「今こそ誰よりも誠実でいなければ」と思っているらしい。僕の告白は、一世一代の、隅田川に飛び込むか清水寺から飛び降りるかのものだった。ユリはそれをしっかり受け止めてくれていたようだ。それは多分ユリにとっては「相手から渡されたもの」に対するいつもの努力なんだろうけど、嬉しかった。

「それは君の決めることだけど、僕は君がなんと言っても受け入れる覚悟はあるよ。それに、死にもしないし。僕が死ぬのはもっと先だけど、我慢が出来なくなっちゃったのさ、ごめん」

“この台詞の半分は嘘だ”と僕はきちんと分かっていた。でも、その上で嘘を吐いた。僕は多分ユリが居なくなったら、いつも幻の彼女を追いかける生涯を送るだろう。“でも、それでもかまわない。そのために生きるのだ。”僕の気持ちはもう決まっていた。

ユリはしばらく横を向いていて、肘をついた手で口を押えて考え込んでいたけど、やがて僕に頭を下げたというわけだ。




僕たちは晴れて恋人同士となったけど、僕には次の罪悪感が襲ってきた。“彼女のお父さんになんと言い訳をするんだ?”というものだった。

ユリを懸命に守り育ててきた父親の前に僕が姿を現して、「お付き合いさせて頂いてます」なんて抜かしてみろ。どやされるくらいで済めばいいが、ユリも叱られるかもしれないし、僕たちは絶対に引き離されるだろう。だから僕はユリに、「お父さんとはまだ会えないかな。こんなに年が離れてたら、そうそう認めてもらえないからね」と言った。それは、怯えを隠すだけの言い訳だった。




ユリを僕の家に呼んだ日は、雨が降っていた。ユリは「傘、嫌いなの」と言って、びしょ濡れで待ち合わせ場所に現れた。僕はびっくりしてしまって慌てて彼女を自分の傘まで引っ張って、じっとり重くなったジャケットを脱がせた。僕はその日仕事の終わりが遅く、ユリを迎えに行ってもう一度家に戻っていたら、帰宅が12時近くなってしまうのが分かっていた。でもユリが「文ちゃんの家で今日会いたい」と言うので、バス停と、待ち合わせ場所としてその近くのコンビニを指定していた。“彼女のことを思うなら、もっと余裕のある日を選ぶべきだ”と思ったけど、ユリが電話で泣きそうな声を出して、「ごめんね、今日どうしても…」と言うのだ。別の日を選ぶなんて選択肢は僕には無かった。




僕は何も無くて寂れた自分の家にユリを招くのは気が進まなかったけど、直しようもないししょうがないと思って玄関の扉を開ける。奥の間に彼女を通してから、「ほんとになんにもないけど、とりあえず濡れた服を着替えなきゃ。僕の服貸すよ」と言った。ユリはちょっと赤くなってきょときょととしてから、「うん、じゃあ、頼む…」とつぶやいた。

「それにしても、ごめんね。駅前まで迎えに行けばよかった」

「いいよ。その代わり、お風呂貸して」

「うん。もちろん。体を温めないとね」

僕はタンスから、サイズに困らなさそうな大きめのTシャツと、スウェットパンツを選び出した。僕自身は男性で痩せっぽちなので、ユリの体型に合いそうなものというと、それくらいしか無かった。僕は年甲斐もなくどこか気恥ずかしくなりながら、それをユリに渡す。

「ありがと。あ、これなら入りそう」

「うん」

すると、ユリは渡した服を持って、急に寝室の方に行って襖を閉めた。僕はどうしたんだろうと思って、襖のこちら側から声を掛ける。