赤房下の妖精 ~掌編集 今月のイラスト~
『赤房下の妖精』
いつしか彼女はそう呼ばれるようになった。
コロナ禍の下で毎場所東京開催となっていた大相撲、そんな折、毎場所、連日、同じ席で土俵を見つめる女性の姿が話題になっていた。
東の花道に面した、赤房下の辺りの溜り席。
TV中継は基本的に正面からのカメラで捉えた映像が使われるのだが、そのカメラでは彼女は写り込まない。
しかし東方力士が勝ち、次に土俵に上がった力士に水を付ける場面が映し出されると彼女はその背景に写り込む、ただし、ピントは力士に合わせているので少しピンボケの映像だが。
それでも彼女は目立っていた。
そして彼女を周囲から際立たせているのはその美貌ばかりではない。
膝をぴたりと揃え、背筋をまっすぐに伸ばし、両手はきちんと腿の上に揃えられていて身じろぎひとつしない見事な正座、そして取り組みが終わると上品に拍手をして再び両手は腿の上へ、その所作の上品さは古風な女性を思わせる。
そしてお団子にまとめたみどりの黒髪、ぱっちりした瞳、マスクをかけていてもわかるすっきりと細身の輪郭……妖精と呼ばれるのも当然だろう、こんな女性が実在しているのか、と思うほどなのだ。
しかも溜り席のチケットは高価だから十五日間連続で観戦するとなると数十万と言う金額になる、それも毎場所だ、いや、それ以前にチケット入手が困難な席でもある、相撲協会に多額の寄付をする、いわゆる『タニマチ』しか入手できないのだ、と言う人もいる。
だとすると、彼女はかなりの名家のお嬢様なのでは? と言う憶測が流れるのも当然、そのことも彼女を一層ミステリアスな存在に仕立て上げて行く。
金になりそうなネタにはたとえ相手が一般市民であろうと無遠慮に食いつくのがマスコミ、例に漏れず彼女にも取材を試みるが、彼女は柔らかく微笑んでやんわりと拒むだけ、そして、タクシーを停めるでもなく、ましてお抱え運転手が迎えに来るわけでもなく、徒歩で両国駅へと消えて行く、そして雑踏の中、記者たちは彼女をいつしか見失ってしまうのだ。
だが、コロナ禍が収まり、50%の入場制限をしていた国技館に再び満員御礼の垂れ幕が下がるようになると、彼女の姿は忽然と消えた。
「この席かい? 俺も驚いてるんだよ、あの『赤房下の妖精』が座っていた席だろう? だけど彼女のことは何も知らないよ、たまたま買った席がここだっただけなんだ」
彼女がいつも見事な正座をしていた席には毎日違う観客が座るようになり、当然ながらどの観客に聞いても彼女のことを知っている由もない。
『赤房下の妖精』は闇の中へと消えて行ってしまったのだ。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
俺は、とある相撲専門誌で記者をしている。
俺は元力士、大学相撲でそこそこの実績を残して大相撲入りし、当初はそれなりに『期待の星』などとも呼ばれて十両まではまずまずのペースで出世していたのだが、入幕を目前にして膝に大怪我を負い、医師からもう一度同じ個所を怪我したら一生歩けなくなると宣告されて廃業せざるを得なくなったのだ。
だが相撲界からは去りがたく、親方の口利きもあって、専門誌の編集部に再就職が叶った。
一応大学は文学部だったし、勉強が出来ると言うほどのことはなかったが、文章を書くのは好きで得意でもあったので記者として採用されたのだ。
国技館には毎場所足を運んでいるから『赤房下の妖精』のことはもちろん知っていたし、強い興味を抱いていた……いや、ぶっちゃけ『なんて綺麗な女性だろう』と思って憧れていた……恋していたと言った方が正しいかも……。
彼女が忽然と消えてしまってからと言うもの寂しくて仕方がない、国技館に来れば彼女がいつも座っていた席をいつも注意して見ていたが、その席に座るのは年配の男性ばかりだ。
相撲協会も観客の素性など公にはしないが、専門誌の記者とあってこっそり教えてもらった、案の定、その席はあるタニマチが持っていた席、大相撲関係者なら誰でも知っているような人物だ。
だがコロナ禍の直前、その方は体調を崩されて、もし感染でもしたら大変だ、と言うので相撲見物を控えていたことも教えてもらえた。
だったら、彼女はその人の娘さんやお孫さんかと言うと、それはあり得ない。
その方にはお子さんがいなかったのだ、姪と言う線も考えられたが、年齢的に適合する若い女性はいなかった……流石にその先まで調べるのは困難だし、可能性も低い。
そしてコロナ禍も終息に向かい出した頃、その方は急に亡くなられて、例の席も一般に売りに出されるようになっていた。
それが、彼女が忽然と消えた真相だ。
正直、彼女があんな風に話題になっていなければ声をかけたかった、とにかく相撲が好きなことは間違いないので、元力士の俺にも少しは目があったんじゃないかと思うと残念で仕方がない。
そんな折、俺は力士時代から贔屓にしてくれていた方から宴席に呼ばれた。
そして、その帰り道……。
「あ……先ほどはご贔屓に……」
「え?」
駅で電車を待っていると、ピンクのコートを羽織った女性から声をかけられた。
彼女は大きなトランクを引いていて、三味線のケースを抱えていた。
「もしかして、芸鼓さん?」
「はい、お座敷に呼んでいただいてました」
「まあ、記者風情に芸鼓さんを呼べるほどの金はないから、贔屓にしたのは旦那だけどね」
お座敷に出ている時は日本髪だったし、白塗りだったからピンとは来ていなかったが、言われてみれば確かに三味線を弾いていた芸鼓さんだ。
旦那は「若いのに三味線が絶品なんだよ、この娘は」と言っていたが、俺にはその辺りはよくわからない、ただ、奇麗な女性だなとは思っていた。
日本髪に着物も似合っていたが、髪を下ろして洋装になるとだいぶイメージが変わる、こちらも良い……と言うか、俺にはこっちの方がピンと来る、ちょっとドキドキするくらいの美人だ。
「そのトランク、重そうだね」
「着物一式が入っているんですが、それほど重くは……」
彼女はそう言ったが、こっちは何しろ元力士、女性が大きな荷物を運んでいるのに知らんぷりしているわけには行かない、と言うか、こんな美人の手助けなら買ってでもしたいくらいだ、俺は彼女のトランクを引き受けて電車に乗り込んだ。
タニマチの宴席に呼ばれるくらいだから彼女は中々の相撲通だった、俺の現役時代のことも知っていてくれて、話に花が咲いた。
そして彼女からはタニマチの旦那衆のことを……その中に亡くなった方の名前も出て来た。
「あの方に呼んでいただいたのがきっかけで、他の旦那様方からも呼んでいただけるようになって……随分と可愛がっていただきました」
「そうなんだ……」
そう相槌を売った時、はたと気が付いた。
(……もしかして……)
「あ、私、この駅なんです」
彼女はそう言って席を立った、俺が降りるのはまだだいぶ先の駅だったが、そんなことに構ってる場合じゃない、俺もトランクを引いてホームに降りた。
「花粉症って吸い込んだ花粉が蓄積して発症するらしいので、春先はいつも持ってますのよ」
彼女はそう言ってマスクをかけた。
いつしか彼女はそう呼ばれるようになった。
コロナ禍の下で毎場所東京開催となっていた大相撲、そんな折、毎場所、連日、同じ席で土俵を見つめる女性の姿が話題になっていた。
東の花道に面した、赤房下の辺りの溜り席。
TV中継は基本的に正面からのカメラで捉えた映像が使われるのだが、そのカメラでは彼女は写り込まない。
しかし東方力士が勝ち、次に土俵に上がった力士に水を付ける場面が映し出されると彼女はその背景に写り込む、ただし、ピントは力士に合わせているので少しピンボケの映像だが。
それでも彼女は目立っていた。
そして彼女を周囲から際立たせているのはその美貌ばかりではない。
膝をぴたりと揃え、背筋をまっすぐに伸ばし、両手はきちんと腿の上に揃えられていて身じろぎひとつしない見事な正座、そして取り組みが終わると上品に拍手をして再び両手は腿の上へ、その所作の上品さは古風な女性を思わせる。
そしてお団子にまとめたみどりの黒髪、ぱっちりした瞳、マスクをかけていてもわかるすっきりと細身の輪郭……妖精と呼ばれるのも当然だろう、こんな女性が実在しているのか、と思うほどなのだ。
しかも溜り席のチケットは高価だから十五日間連続で観戦するとなると数十万と言う金額になる、それも毎場所だ、いや、それ以前にチケット入手が困難な席でもある、相撲協会に多額の寄付をする、いわゆる『タニマチ』しか入手できないのだ、と言う人もいる。
だとすると、彼女はかなりの名家のお嬢様なのでは? と言う憶測が流れるのも当然、そのことも彼女を一層ミステリアスな存在に仕立て上げて行く。
金になりそうなネタにはたとえ相手が一般市民であろうと無遠慮に食いつくのがマスコミ、例に漏れず彼女にも取材を試みるが、彼女は柔らかく微笑んでやんわりと拒むだけ、そして、タクシーを停めるでもなく、ましてお抱え運転手が迎えに来るわけでもなく、徒歩で両国駅へと消えて行く、そして雑踏の中、記者たちは彼女をいつしか見失ってしまうのだ。
だが、コロナ禍が収まり、50%の入場制限をしていた国技館に再び満員御礼の垂れ幕が下がるようになると、彼女の姿は忽然と消えた。
「この席かい? 俺も驚いてるんだよ、あの『赤房下の妖精』が座っていた席だろう? だけど彼女のことは何も知らないよ、たまたま買った席がここだっただけなんだ」
彼女がいつも見事な正座をしていた席には毎日違う観客が座るようになり、当然ながらどの観客に聞いても彼女のことを知っている由もない。
『赤房下の妖精』は闇の中へと消えて行ってしまったのだ。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
俺は、とある相撲専門誌で記者をしている。
俺は元力士、大学相撲でそこそこの実績を残して大相撲入りし、当初はそれなりに『期待の星』などとも呼ばれて十両まではまずまずのペースで出世していたのだが、入幕を目前にして膝に大怪我を負い、医師からもう一度同じ個所を怪我したら一生歩けなくなると宣告されて廃業せざるを得なくなったのだ。
だが相撲界からは去りがたく、親方の口利きもあって、専門誌の編集部に再就職が叶った。
一応大学は文学部だったし、勉強が出来ると言うほどのことはなかったが、文章を書くのは好きで得意でもあったので記者として採用されたのだ。
国技館には毎場所足を運んでいるから『赤房下の妖精』のことはもちろん知っていたし、強い興味を抱いていた……いや、ぶっちゃけ『なんて綺麗な女性だろう』と思って憧れていた……恋していたと言った方が正しいかも……。
彼女が忽然と消えてしまってからと言うもの寂しくて仕方がない、国技館に来れば彼女がいつも座っていた席をいつも注意して見ていたが、その席に座るのは年配の男性ばかりだ。
相撲協会も観客の素性など公にはしないが、専門誌の記者とあってこっそり教えてもらった、案の定、その席はあるタニマチが持っていた席、大相撲関係者なら誰でも知っているような人物だ。
だがコロナ禍の直前、その方は体調を崩されて、もし感染でもしたら大変だ、と言うので相撲見物を控えていたことも教えてもらえた。
だったら、彼女はその人の娘さんやお孫さんかと言うと、それはあり得ない。
その方にはお子さんがいなかったのだ、姪と言う線も考えられたが、年齢的に適合する若い女性はいなかった……流石にその先まで調べるのは困難だし、可能性も低い。
そしてコロナ禍も終息に向かい出した頃、その方は急に亡くなられて、例の席も一般に売りに出されるようになっていた。
それが、彼女が忽然と消えた真相だ。
正直、彼女があんな風に話題になっていなければ声をかけたかった、とにかく相撲が好きなことは間違いないので、元力士の俺にも少しは目があったんじゃないかと思うと残念で仕方がない。
そんな折、俺は力士時代から贔屓にしてくれていた方から宴席に呼ばれた。
そして、その帰り道……。
「あ……先ほどはご贔屓に……」
「え?」
駅で電車を待っていると、ピンクのコートを羽織った女性から声をかけられた。
彼女は大きなトランクを引いていて、三味線のケースを抱えていた。
「もしかして、芸鼓さん?」
「はい、お座敷に呼んでいただいてました」
「まあ、記者風情に芸鼓さんを呼べるほどの金はないから、贔屓にしたのは旦那だけどね」
お座敷に出ている時は日本髪だったし、白塗りだったからピンとは来ていなかったが、言われてみれば確かに三味線を弾いていた芸鼓さんだ。
旦那は「若いのに三味線が絶品なんだよ、この娘は」と言っていたが、俺にはその辺りはよくわからない、ただ、奇麗な女性だなとは思っていた。
日本髪に着物も似合っていたが、髪を下ろして洋装になるとだいぶイメージが変わる、こちらも良い……と言うか、俺にはこっちの方がピンと来る、ちょっとドキドキするくらいの美人だ。
「そのトランク、重そうだね」
「着物一式が入っているんですが、それほど重くは……」
彼女はそう言ったが、こっちは何しろ元力士、女性が大きな荷物を運んでいるのに知らんぷりしているわけには行かない、と言うか、こんな美人の手助けなら買ってでもしたいくらいだ、俺は彼女のトランクを引き受けて電車に乗り込んだ。
タニマチの宴席に呼ばれるくらいだから彼女は中々の相撲通だった、俺の現役時代のことも知っていてくれて、話に花が咲いた。
そして彼女からはタニマチの旦那衆のことを……その中に亡くなった方の名前も出て来た。
「あの方に呼んでいただいたのがきっかけで、他の旦那様方からも呼んでいただけるようになって……随分と可愛がっていただきました」
「そうなんだ……」
そう相槌を売った時、はたと気が付いた。
(……もしかして……)
「あ、私、この駅なんです」
彼女はそう言って席を立った、俺が降りるのはまだだいぶ先の駅だったが、そんなことに構ってる場合じゃない、俺もトランクを引いてホームに降りた。
「花粉症って吸い込んだ花粉が蓄積して発症するらしいので、春先はいつも持ってますのよ」
彼女はそう言ってマスクをかけた。
作品名:赤房下の妖精 ~掌編集 今月のイラスト~ 作家名:ST