夜の街、ウサギと少年
おじさんは、ジョッキを片手に持ち上げ、少年もジョッキを静かに持ち上げて、乾杯を交わした。おじさんの力が強すぎて、少年はジョッキを落としそうになったが、なんとか踏ん張った。そして残りを一気に飲み干した。
それからもおじさんと少年は語り合い、酒を飲み交わし合い、夜を迎える。夜を迎えても、少年はウサギを追い掛けることはなく、いつまでも酒を飲み交わしていた。今日はこのまま酔ってしまい、ウサギを捕まえた後の話に夢中になっていた。いつか果たすつもりであろう、少年の夢の話だ。
その頃、酒場の屋根の上にはウサギがいた。いつになったら酒場から出るのだろうと、少年を待っていた。しかし一向に出てくる気配はない。ウサギは諦めて、夢を撒きに屋根をぴょんぴょん飛び跳ねた。
おじさんが酔い潰れて寝静まった後も、少年は眠ることはなかった。床の上に仰向けで倒れ込んで、天井をぼーっと眺めていた。
「もう、眠れないんだよな。だから夢も見れない……」
誰に言うでもなく、少年はぽつりとそう呟いた。
夜の街。屋根の上で、少年は煙突にもたれ掛かって夜空を見上げていた。上を向いて見ていたのはいつもウサギだけだったから、こうしてじっくりと星空を見たことはあまりなかった。少年は、星空がここまで美しいものだったのかと思いながら、しみじみにぼーっと眺めていた。
しかし、やっぱりウサギの撒く夢のかけらの方が美しいと思ってしまう。夢のかけらに包まれたウサギのあの笑顔は、それ以上にもっと素敵なのだが。そんなことを考えながら、少年は道具の手入れをしていた。
今日こそは絶対に捕まえようと、長いロープを用意していた。少年は、おじさんからある話を聞いていた。遠い遠い東の国には、ロープを使って悪党を捕まえたりロープを伝って屋根から屋根へ渡る人がいるらしい。つまりロープを使えば、何処までウサギを追い掛けられると少年は考えた。今度こそウサギを捕まえることが出来る。そう信じて、少年はロープを持ってきた。
「しかしまあ、どうやってこれで捕まえれば良いんだろうか」
ロープを使って悪党を捕まえると聞いたが、どうやって捕まえるのかは聞いていなかった。ロープの使い道なんて、縛るというくらいだし、ロープで相手を縛るのだろうか。ロープを触りながら、少年は色々と考えていた。
「つまりこのロープで、あのウサギを縛るわけか……って、そんな酷いこと出来るか」
色々考えている内に、ウサギが縛られている光景が浮かんできた。それはいくらなんでも酷いことじゃないだろうか。そう思った少年は、つい反射的にロープを投げ捨てようとした。
その時、とん、と、後ろ側から何か物音がした。少年は驚いて、恐る恐る煙突の陰から顔を出す。そこには、ウサギが立っていた。黒いドレスと帽子をまとい月の光に包まれたウサギを、ここまで間近で見たのは初めてだった。少年は、ウサギのあまりの美しさに再度魅入られた。ウサギは月を眺めているだけのようで、少年には気付いていなかった。
「こ、これはチャンスじゃないか? これだけ距離が近ければきっと捕まえられる。ええと、ロープの使い方って……ええい、こんなまどろこいもん使わなくて良いか!」
そっとロープを捨てて、少年はゆっくり立ち上がった。ウサギに気付かれないように、物音を立てないように静かに、一歩ずつウサギに近寄った。
ウサギは、ぼんやりと月を眺めていた。月の光は、ウサギの撒く夢のかけらを作るのに大切なものだった。夢を見せるものは昔から夜を見守っている月だった。月の光を吸い込んで、子供たちは夢を見る。ウサギは、その夢を幸せな夢に変えて撒いていた。どうせ夢を見るのなら、悪夢よりは幸せな方が良いと思っていた。それが、ウサギなりの善行だった。
今回はまだ少年を見ていなかったが、この前のこともあり今日も見ないのかもしれない。そう考えていて、ウサギの警戒心はいつもより緩んでいたのだった。
こつ。ウサギの耳に、不審な音が入った。振り返ると、後ろには少年が忍び寄っていたのに気が付いた。
「あ……」
「…………」
気の抜けるような声を上げた少年に、呆気に取られた顔を見せるウサギは、見つめ合って、そのまま固まってしまった。ここまで近付いたのも、近付かれたのも初めてで、驚きで両方とも思考が止まってしまったのだった。
「あ、あの……」
その少年の声を合図に、ウサギは慌てて距離を取って、隣の屋根へ飛び移ろうと姿勢を取った。
「おい、待ってくれ!」
少年は急いで、ウサギに向かって走り出した。走って手を伸ばせば、捕まえられる。そう思えるくらいにもう近い距離にいたのだ。足を取られる、取られない、そんなことも気に掛ける余裕もなく、とにかく走った。
勿論その少年を待つ暇もなく、ウサギは跳んだ。それに続いて、少年も迷わず跳んだ。普通ならウサギの体に触れることもなく、そのまま地面に落ちてしまっていただろう。しかし、少年の飛躍は自分でも驚くほど異常に高かった。少年がそのことに驚く暇もなく、空中で、無我夢中になってウサギを抱き締めた。
「捕まえた……捕まえたぞ!」
ぎゅうっと抱き締めたまま、少年は思わず叫んだ。捕まってしまったウサギは、驚いてただただ唖然として、振り解こうとする考えも起きなかった。
しかし少年が捕まえた時には、一人と一匹は既に屋根から跳んでしまった空の上、この勢いで失速していた。このままでは、隣の屋根まで届きそうにない。落ちる、地面に落ちる。そうなると分かると、少年たちは悲鳴を上げた。
がしゃん。二人は抱き締め合った形で、ごみの山に落ちた。
「あいたた」
少年が下敷きになる形で落ちたのだが、先に体を上げたのは少年だった。体中が痛く、何が起きたのか暫く理解出来ず、暫く空をぼーっと眺めていた。そしてふと、胸に抱き締めていたウサギに気が付いた。
遂にウサギを捕まえたという驚きよりも、こんなすぐ傍にウサギがいるという事実に驚いてしまい、言葉も出なかった。
ウサギは少年の腕の中でちいさく震えて、すうすう、と泣いていた。
「……ごめん」
あの時自分も飛んで捕まえなければ、ウサギを怖がらせることはなかった。そう考えると、どうにも申し訳ない気持ちでいっぱいになった。少年は、ウサギの耳元で囁いて謝った。ちいさく震える体をぎゅうっと抱き締めて、頭を撫でた。
頭を撫でたところで、ウサギははっと我に返り、少年の腕を振り解いた。
ウサギはすぐに後ろに跳ね除けて立ち上がり、落とした帽子を拾い乱れた黒いドレスを整えた。遂に少年に捕まってしまったことが悔しかったのか、抱かれたことが恥ずかしかったのか、ウサギの白い顔は見事に真っ赤に染まっていた。その顔を隠そうともしないで、涙の溜まった目で少年をぎっと睨み付けた。
ウサギは何かを言おうとして口を開いたが、結局何も言わずに、ぐしぐしと顔を拭い屋根の上に飛び跳ねた。そしてそのまま、少年に振り返ることなくウサギは少年の視界から消えてしまった。
「……あはは」
作品名:夜の街、ウサギと少年 作家名:白川莉子