ユキ
僕は優柔不断な性格のため、いざ今日を最後にしようと思いながらも、どこかまだ煮えきらない自分に戸惑っていた。
だいいちまだユキのことは、いまでも好きであるから尚更である。
しばらく喫茶店でユキを眺めている内に、僕は無性にユキを抱きたくなり、
「なあ頼みがあるんやけど。
今から、モーテルに行きたいがやけんど、もう金が無くなってしまってねェ……。
ダメかねェ?」
僕は今日を最後にしようと決めながら、心も体もユキを求める矛盾した自分を押さえることが出来ずに、懇願するように言った。
ユキは財布の中身を確認して、
「大丈夫みたい、いいよ」
と笑って答えた。
僕達は町外れの小さなモーテルに入った。
僕はユキを抱きながら、表情やしぐさの小さな動きまでも永遠に忘れないよう記憶に留めたいと、ユキから目を一瞬たりとも離すことをしなかった。
「おれもこのまま大阪に行って、ユキちゃんと暮らそうかなァ」
と天井を見ながら独り言のようにつぶやいた。
ユキに以前、大阪で暮らしたいと言った時、ユキは軽い調子で肯定したことがあった。
しかし、今日のユキは聞こえなかったかのように、目を閉じたまま黙っていた。
僕は今もユキが妻子ある男と付き合っているか、確認はしていなかったが、ユキに聞けば必ず別れたと言う気がした。
15
人影まばらな国鉄阿波池田駅のホームに立ち、僕とユキは徳島行きの列車を待った。
十一月も中旬を過ぎており、夕暮れ迫る駅のホームは寒さが身に染みた。
僕はユキとこのまま会わないつもりだが、自信はなかった。
また何日かすれば、電話をかけてしまいそうな気がした。
この寂しい駅を最後の別れの場所にすると、ずっと僕の中にユキの面影が消えずに残りそうで嫌だった。
僕は列車を待つ間も、ユキのことを見続けていた。
ユキも寒そうに肩をすぼめながら、時折僕のほうを振りかえり小さく笑った。
僕は何度もユキをホームから連れ出したいという衝動にかられながら、ユキの淋しそうな横顔を見ていた。
徳島行きの列車に乗り込み、ドアのガラス越しに笑ったユキの表情が少し歪んだように見えた。
こういったときのユキの表情はたまらなく僕を切なくさせる。
僕は「うっ」と込み上げる感情をそらすよう、おどけた仕草をしてユキを笑わせた。
列車が動き出すと、ユキが小さく手を振った。
僕はホームの端まで走り、小さくなっていく列車を見送った。
ユキを乗せた列車が見えなくなった後、しばらくはその列車の残像を放心したように見続けることしか出来なかった。
列車の残像が揺れて消えたと同時に、涙が頬を伝い落ちた。
人の気配が全くなくなった暗く寂しい駅のホームに佇む僕に、どこかの寺の鐘の音が帰路につくことを促すように静かに鳴り響いた。
16
僕はユキと別れた直後に田舎の彼女と結納をし、翌年の春に結婚をした。
その後ユキとは一度も会っていない。
結婚後半年を過ぎた頃、一度酔っ払ってユキの実家に電話をしたとき、たまたまユキが出たが、突然外から帰った妻にばれて、妻が電話口に出て切ってしまった。
それ以来電話をかけたことがない。
しかし、どうしてもユキへの未練が断ち切れず、五年経った頃に、妻の留守中ユキの実家に電話をした。
その時電話口に出たユキの母親から、
「アノコは、もうこの家にはいませんし、連絡も取れません」
と邪険に言われたことがある。
電話を切った後、ユキの行く末を思った。
あの妻子ある男を奪って、どこかで暮らしているのか?
それとも家出同然に別の男と出ていったのか?
いずれにしろ母親の様子からは普通に結婚して、平凡に暮らしているとは思えない。
もう再びユキと会えないと思うと、最後の駅で別れたときの淋しげな横顔が、余計に薄幸なユキの行く末を暗示するようで切なかった。