58の幻夢
15.名所にて
死のう。もうやんなった。仕事も恋愛も人間関係も。自分も含めて全部ぶっ壊して、綺麗さっぱりなかった事にしよう。会社に辞表を叩きつけ、恋人、友人、家族と縁を切り、家財道具を整理して電車に飛び乗った。行き先は、ネットで調べた自殺の名所なんて呼ばれている断崖絶壁だった。
崖上にはすでに先客がいた。恐らく目的は同じであろう、真っ白いワンピースを着た肌の青白い女。死ぬ前から幽霊みたいなやつだな、そんな失礼な事を考えながらとりあえず話しかける。
「どうかしましたか」
女はやる気なさそうに振り返る。醜くはないが美しいとも思わない、印象の薄い顔。
「見ての通り。飛び降りようとしてる」
「……まあ、何があったかわからないけど、まだまだ人生長いんだしさ」
自分がしようとしてる事を棚に上げて、思わず引き止めていた。どうやら人間という生物は、自分が死ぬときでも、他人が死ぬのは見たくないものらしい。
「ありがちなセリフありがと。ところであんたは何しに来たの?」
女が問いかけたその時、間の悪い事にそよ風が吹いた。ひらひらと俺の胸ポケットから、封筒がこぼれ落ちる。それは、俺と女のちょうど中間地点に、「遺書」という文字をこれでもかと見せつけて、鎮座した。
「ぶふっ。ふはははは」
閑静な自殺の名所に、全く似つかわしくない爆笑が響き渡る。
「さっきのありがちなセリフより、よっぽど思い止まる気になった」
青白い顔にやや赤みがさし、幽霊から重病人程度には生気が戻っていた。
「そりゃ良かった」
気まずさ半分、場が和んだ事半分で、俺の顔にも笑みがこぼれる。
「はぁ、もうちょっとだけがんばってみようかな。けど……」
女は俺の遺書を拾い上げ、びりびりと引き裂く。
「命の恩人を死なせるわけにはいかないでしょ」
数多の紙片が風に舞い散った。
あの日から五年、どうにかこうにか俺の人生の糸は途切れてはいない。順風満帆とは言いがたいし、あの時清算してしまって失ったものも、決して小さくはない。しかし後悔もしていない。
女には、あれから全く会っていない。名前も身元も聞く事はしなかったし、顔の印象も薄かったから、今会っても気づかないかもしれない。でも、きっとどっかで元気にしているだろう。そう信じている。
ただ、もしかしたらあの女、本当に幽霊だったんじゃないかって、ちょっとだけ思っていたりする。死を招くはずの幽霊が、逆に自殺を引き止めるなんて、ちょっと聞いたことないけどさ。