続・くらしの中で
自然の成り行き その一
先日小さい頃から「おばちゃん」と呼んでいた生家の近所だった人が介護施設に入居していると聞いていたので訪ねた。為すべきことはできるだけ早いほうが良いとつくづく実感しながら寂しい気持ちで帰途についた。
おばちゃんは車椅子に乗りヘルパーさんに付き添われてエレベーターで玄関口まで下りて来た。多分コロナ禍のせいで、面会者の部屋への入室はできなかった。
おばちゃんは不審な顔をして私を見た。懐かしいおばちゃんの顔ではなかった。
私にとっても知らない顔だった。でも確かに雅子おばちゃんだ。
おばちゃんの口からは「見覚えがない」という言葉が繰り返し出てきた。
「この知らん人が私に会いに来たの?」とヘルパーさんに問いかけている。それでも無理に握手をしてお暇した。
これまで介護施設に入居している幾人かの人を訪ねる度に懐かしく思っていた人が知らない人と化していた。お互いが見知らぬ者同士、健在の時のあの懐かしい人はそこにはいなくなっていた。
それは寂しく悲しいことなのだろうか。
人間が生きている間に、脳は様々なかたちで変わって行く。
それは呆けという症状ばかりではない。
幼児や小学生の時に可愛くて記憶に残っている子に数年経って会っても、もうその頃の可愛い子供ではなくなっている。その度に寂しさを感じたものだ。
人間とは絶えず変化を繰り返しながら成長し、衰えて、消えてゆく生命体なのだ。そういう自然な成り行きを寂しいと捉えてはいけないのだろうけれど、でもやっぱり寂しい。
小さい頃に手を繋ぎ、歌を歌いながら保育園の送迎をした幼子はそのことを知らないと言う。私だけが一方通行の懐かしさにしがみついているのだ。