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川と海の境には

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「川と海の境には」










「川と海の境には」
               晴
 

風に川は流せない
川が風を生むのだ
風がゆく、
進まねば
  風が風でなくなる


連ねていた灰色の路面がそこで、ここで土に変わった。冬空の下、自然たちは路面の向こうに追いやられて強く薫っている。見える景色の輪郭は、都会の滑らかさを失い、雑になって自生している。
ふりかえると、一本道が緩やかに下っていた。自然の中にただ一つ、発達した人工物がある。都会で見ていた道路は、こことは逆の関係だった。道路だけに人の気配がしている。
過ごしたはずの時間が役に立たず、今を装飾していない。両足の疲労だけが歩いてきたらしい過去を引き摺っていた。
道の片側は盛り土になっていて、もう片側は崖がはっ と落ちていた。斜面は土がむき出しになって土壌は緩くなっているようだった。その斜面に、一匹のミミズが体の半分をぶら下げていて、頭か尾か、どちらかだけが土に埋まっていた。そんな崖の上に薄く乗せられているものが、人の気配を微かに残した、少し近代化が進んだ、そんな近代道路だった。
下から吹き上げてくる風には暖かな温度を感じる。ここは少し高いところにあるらしい。
ここがどこなのか。私は近代道路の終わりにきて、ようやくやっと、その疑問に至った。


始まりは冬の無人駅であった。上り下りの線路は同じように錆びていて、鉄の匂いが低く留まっていた。和な田舎町に住み着いているはずの蛙や蟻たちはその錆を嫌ってか、線路沿いにだけは近づこうとはしなかった。代わりに田や水路に生き場を求めていた。
単純に、線路は生き物から嫌われていた。風に運ばれて、そこが生き場だと決められた雑草。そういう意思を全くあらわさない雑草でさえも、線路付近には足を伸ばしていない。その空間にだけあらゆる生き物がいなくなってしまっている。
無人駅のホームにはその錆の匂いが僅に入り込んでしまっていて、ホームの点字ブロックや壁には見えない微粒子がこびりついている。それは雨上りのむわりとした不快に似ている。足で擦ればじゃりじゃりと小さな音をたてるような、そういう細かい、細かい砂のような微粒子。日常では響かない、弱く微小なもので、こういう穏やかなときにだけやけに心を焦らせる、そういう質の悪い音。そういう動かない微粒子が風や私によって揺れて擦れて、細かくなっていく。無人という、静思に富んだ風景であるはずなのに、ここは妙にざわついている。
私は無人駅特有の、静かな高揚に浸ることはせず、すぐに駅舎を出た。錆の匂いは途端に消え去った。代わりになんだか空っぽのように感じられた。錆の匂いが抜けた場所に入ってくる新たな空気の特徴が、何一つとして私の心をくすぐらなかったからだ。冬という季節を感じさせるような厳しい風もなければ、雪や霙といった特有の現象も見られない。寒空の澄んだ空気による清涼に似た感覚もない。草木は緩やかに春を迎える準備をしているようであった。それが草木から季節感を奪っていた。
小さな蕾の色が、枝先に見えているものもいた。暖かさの中で、緩やかに冬が終わり始めている。


時折吹いてくる重い風が脆い駅舎を抜ける。伸縮性を持ちながら、倒壊しない程度に軋む。ああいう建物の方が地震には強いと聞いたことがあるが、目の前の駅舎は今、今この瞬間に潰れても何もおかしくないほど古びていた。むしろ倒壊することこそが自然な流れに思えた。
(写真を撮った直後に倒壊しだしたら、それはなんだか楽しくなるじゃないか。)
使われている木材は湿気を含んでは発散して、そういう繰り返しによって中身がそのまま抜けていた。私の目には駅舎が軋む風景がしばらく続いた。それ以外、やるべきことが周りに転がっていなかったのだ。


冬風は匂いを持っていない。そんな景色の下で錆が振動し始めた。電車が無人駅にやってきたのだった。私が乗って来たものとは逆のものだった。少し向こうで踏切の音が掠れながら消えていく。電車の先頭が無人駅のホームに入る。駅舎の出口はホームの真ん中辺りにあり、私はそこから電車が入ってくるのを見ていた。線路が振動して、それが駅舎にだけ酷い歪みを見せていた。悲鳴ではない。
電車がホームの中程にやってきた。緩んでいく電車のスピードと、緩まない風。あれは電車にひっついてやってきた風だ。その風が車体を追い越していく。あれはどこの空気だろうか。線路が敷かれた土地を、電車は突き進んでは、そこにあった空気を車体に沿わせて流させる。空気は突然流れを変えられて、随分困っただろう。何せ、元いた場所しか空き地がないのだ。それ以外の場所はもうすでに別の空気が占領している。
それが理由かどうかは知らないが、電車は強い風を引き連れてくる。無数の小さな空気だったはずだが、それらは強引に丸められて、一つの大きな風に変えられているようだった。強引に突き進んでいく電車に、自らの居場所を委託しているかのような。行き場を失い、新たな居場所探しをしているような――。つまりそこには風たちの、所在不明の焦りが見えていた。
今、電車が止まった。遅れて車輪の音が軋まなくなった。打ち上げ花火の音のような、そんな趣が見えた気がする。
その瞬間の些細なざわめきは、私の鼓膜にしっかりと届いていた。花火の散り際の、次に見るべき場所を探しているときのざわめきに似ている。電車を追い越して吹き抜けていた風たちが一斉に慌てだしているような、そんな気がしたのだ。


デンシャよ、なぜ止まる。
さっきまで我々の先にいたではないか。
旗は、ゴールの旗は!
我々はこれから、どうすれば良いのだ! 


というような、他人任せに流れていた風たちの唐突な不安だ。焦りが不安に切り替わっていた。
電車が緩んでいくときに、電車を追い越していった風たちは向こうの山で雲を回していた。残りの風たちが、電車の近くで戸惑っている。もう一度電車に近付く者、そしてまた離れていく者、電車から離れて上空に力無く飛んで逝く者、線路の錆びにやられて苦くなった者――多種多様だった。
それらの風の内、少なくない数が駅舎を抜けて私の方にやってきた。脆い駅舎を揺らすこともできず、私に何か、何かの感情を運んでくることもできなかった。ただただ、無味無臭なだけの、本当につまらない風たちだった。
乗客は誰もいなかった。降客もいなかった。電車は中の空気を少し入れ替えて、ドアを閉めた。運転手の影が薄く残って、それだけだった。
電車はもう一度、車輪を回す。錆が擦れて空中に低く撒き上げられた。その振動に、戸惑っていた風たちは一斉に気づいたようだった。私の向こうに流れていった風たちが方向転換して駅舎に向かって走りだした。山の方に向かって行ってしまった風たちは戻ってはこなかった。
その時に気づいたことだが、ここら一帯では電車だけが動的なものであった。動くものに反応することは全く不自然に思えなかった。私も、電車の微かな振動に瞬時に気づいたのだ。
風たちは喜んでいた。またあいつに掴まろう。そうすれば大丈夫だ、大丈夫だ、そういうひとりごとが聞こえていた。
作品名:川と海の境には 作家名:晴(ハル)