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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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二〇二〇年 十月 現在
     
 車から降りて、まず頭に浮かぶとしたら名前からだろうと思っていたが、実際には違った。目の前に広がる景色を割って押しのけるように、顔が浮かんだ。橋野智樹は、左手首に巻いたシーマスターの盤に視線を落とした。午後二時。帰る予定を店に伝えようと思ってスマートフォンを掴むところまでいったが、結局ポケットに戻した。今頃、ショールームの客足が緩やかになって、今年の初めに雇った整備士のイッシ―は、ずっと取り掛かっているファミリアロータリークーペの下にもぐって、それこそ羽根を伸ばしているに違いない。機材のバッテリーの残量についてだけは意見が合うことはなく、橋野が充電しようと取り上げると『まだいけます。絶対、大丈夫っす』と取り合いになる。残量が半分を下回らない内から充電する自分の方が変だという自覚はあるが、今更この癖も変えられない。
 イッシ―には、よく『社長』と呼ばれるが、自分ではそんな自覚がない。ただ、自分の車を長く乗れるように修理していたら、人に自分の愛車にも同じことをしてくれと頼まれ、いつしか商売になった。『橋野トレードオート』という屋号を掲げて、主に国産の旧車を扱う店を構えている。金持ちの道楽である以上、旧車に乗る人間というのは、景気が悪くなっても減らない。そういう客は大事にしておいた方がいい。だから、信念を曲げて外車を扱うこともある。去年までカタログから飛び出してきたようなギャランGTOに乗っていた客は、今年ジャガーXJで現れた。『橋ちゃん、外車もいける?』という軽い言葉。V型十二気筒の巨大なエンジンは、国産かどうかなど関係なく、惚れ惚れするほど精緻だ。例え、店の目の前で動かなくなって、渡りに船とばかりに運び込まれてきた九二年型のスプリンターであっても、エンジンルームというのは特別。いつの間にか三十歳の壁を越えて、三十四歳になった今でも、ボンネットを開けた瞬間に全身に電流が走るような感覚は変わらない。橋野は仕事を頭の片隅に追いやると、すぐ目の前で待ち構えているような古い顔を避けるように、少しだけ俯いて歩き始めた。
 車に人生を賭けたのは、それ以外のことを忘れたかったからだ。
 この町に住んでいたのは、十年以上前。大学の途中で一人暮らしを始めてから、一度も戻っていない。生まれ育った町だから、ここで二十年を過ごして、残りの十四年を別の土地で、と言った方が正しいのかもしれない。一軒目は、丸い書体で『ヤマギノ』と書かれたうどん屋。そこから辿っていく。最後に寄ったのは、大学生の時。狭いテーブルの向かいにいたのは、景色の一部になったような古い顔の一つ。田島和希。身長百八十センチで細身、常に苦虫を噛み潰したような顔。高校で一緒のクラスになり、車の話が合って意気投合した。でも、もしあんな愛想のない若者が面接に来たら、まず雇わない。
『家が決まった』
『いいな。ワンルーム?』
 その前後に多くの会話があったはずだ。しかし、思い出せる断片はそのやり取りと、不動産屋にアパートを見せてもらったこと。後は、田島の苦虫顔が一瞬裂けて、不安が覗いたように見えたこと。知り合うきっかけになった私立の高校は、志望校だったのが冗談に感じるぐらいに、頭の出来が虫以下の金食い虫が集まる、気楽ではあるが退屈な場所だった。そこをどうにかして脱して、大学に進まなかった田島は仕事を始めた。橋野は、自分の頼りない記憶力が全力で回転するのをそこで留めて、のれんをくぐった。客はおらず、当時若かった店主の山城は中年になっていたが、造形はまったく変わっておらず、空いていた場所に後から皺を描き足したような顔をしていた。洗い物をする手を止めて、山城は愛想のいい笑顔を浮かべた。
「いらっさい。あー、マスクええよ外して」
 少し発音が抜けるのも、昔から。右の犬歯がないからだ。『ソーシャルディスタンス』と毛筆で書かれた和紙が、壁に掛けられている。橋野はマスクを外して、席についた。メニューは一新されていたが、食べた瞬間に喉から火が出る激辛のうどんが名物だった。昔の呼び名は通じるだろうか。
「スティンガーください」
 山城は眉をひょいと上げた。伝説のうどんの呼び名は、命名した本人が一番覚えてるだろう。
「地元の人?」
「そうです。十五年も前ですけど、通ってました。橋野です」
 橋野が言うと、山城は笑顔になった。犬歯のあった場所だけが真っ黒で、本人は完全な笑顔のつもりでも、数パーセント割り引かれる。
「覚えてるよー、喧嘩したやろ外で」
「すみませんでした」
 橋野が頭を下げると、山城はスティンガーのことなど完全に忘れたように、隣のテーブル席の椅子に腰かけた。次に言うことは想像がつく。おそらく、十五年前と同じだ。
「店の外に出る直前に始めたやろ。気が早いのよ君は。小柄やのに、よう戦ったな」
 ガラスは弁償した。切った手は放って傷が塞がるのを待った。大柄な田島がいれば結果は変わったかもしれないが、それでは勝ち負けが分からない。
「田島がいたら、勝てたかもしれませんね」
 名前を口に出すと、心臓がペースを狂わされたように、少しだけ跳ねた。山城は懐かしむように目を細めて、言った。
「田島と仲良しやったな。あっこは家も引き払ったし、もうここには住んでないわ」
「もしかして山城さん、生き字引きっすか?」
「生き……、なんて?」
「いや、ずっと見守ってるから、地元のことも色々詳しいかなって」
「うどん好きが中心やから、偏っとるけどね」
 しばらく思い出話が続いた後、山城は厨房に戻った。スティンガーが運ばれてきて、汗だくになりながら食べきると、橋野は店を出た。町を出てすぐに携帯電話を買い替えたから、番号も何もかもが置き去りになっている。
 共通の友人だった、坂間と戸波。坂間は常に坊主だったから、ハゲと呼ばれていた。対して髪が常人の倍近い密度で生えている戸波のあだ名は、ヘルメット。他にも、数人の顔が浮かぶ。これから訪ねる二軒目は、『中村屋』という、バイク用品店。少し手に汗が滲むが、スティンガーのせいではない。関わった人間。売り物のバイクの上に跨って金を数えていた店主の中村は、通称『ナカムー』。そして、隣にあるラーメン屋の真ん前に仕事道具のタクシーを横づけしてさぼっていた、四角い顔を持つ大男の寄松、通称『フランケン』。
 自分が置き去りにしてきたものがどうなっているのか。自分の心配をしなくてよくなった途端に気にかかり始めてから、もう数年が経つ。事務所で一人になった時、時折ふらっと現れる記憶。その始端にいる顔は決まっていた。高校時代からの、たった四年の付き合い。黙っていることで、仲間内で唯一、中村屋と対等に話せるリーダーになった。細身で背が高く、滅多に笑わない、苦虫顔の田島。
 別れの挨拶すらしなかった時は、たいていそれが最後になる。
     
     
一九九九年 五月 二十一年前
     
「なー、入ろうやー。絶対楽しいから」
作品名:Split 作家名:オオサカタロウ