自殺と症候群
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。ご了承願います。また歴史認識や自殺論議などに関しまして、主観が入っている部分はあくまでも作者個人の主観ですので、これもご了承願います。さらに死に対してもかなりの偏見が混ざっているかも知れません。あくまでも私見ですので、ご容赦ください。
自殺症候群
時代は、昭和四十年代終盤に遡る。同時の世の中は戦後の布教を乗り越えて、その後に訪れた空前の好景気によって、戦後復興を見事に果たすことができた。もちろん、東西冷戦などという暗い時代がその背景にあったのは間違いないが、日本という国は、その間隙をぬうようにして、うまく立ち回ったというよりも、超大国の思惑があってのことだが、奇跡とも言える好景気を迎えることができた。
オリンピック招致という好タイミングにも恵まれ、インフラ整備や需要の拡大、さらには日本人独特の発想から、加工という分野でその実力をいかんなく発揮し、輸出という一番利益となる部分で、高収益を挙げた。それが空前ともいえる日本の復興に役立ったのだが、やはり根本には、
「日本人としての気質:
が大いに実力を発揮したに違いない。
元々日本人というのは、開発という部分で昔から長けていた。戦前の日本も決して世界に劣ることのない開発力をいかんなく発揮し、日清戦争から大東亜戦争敗戦までの約五十年というのは、日本紛れもなくアジアの派遣を握った時代と言っても過言ではないだろう。
特に明治時代の日本というのは、諸外国に対して謙虚で、国際法も忠実に順守していた。厳格な軍紀も順守された統制された軍隊だった。すべては、
「欧米列強に追いつき、追い越すため」
と言ってもいいだろう。
強大なアジアの大国、清国に挑み、さらには無謀ともいえるロシアとの戦争。一括りで言うには無理のあるこの二つの戦争は、元々の主旨も違っていた。
当時、清国の冊封国として、まるで属国のような支配を受けていた朝鮮を、日本は開国させた。ただ冊封というのは、属国としてはまだ緩いものであった。いわゆる植民地のような直接支配ではなく、朝貢制度やその見返りとして他の国から責められた時に、軍を送り助けるなどと言った、一種の封建制度のようなものだった。冊封された国に主権はあり、立派な独立国であるため、一種の鎖国のような形をとっていたので、開国させられた朝鮮としても、開国に対しては国内では賛否両論があった。
それは日本が開国した時と事情は似ている。
「攘夷」
という言葉の元、外国人の介入を嫌う一団があり、しかし、黒船による、
「艦砲外交」
と言われる一種の脅迫にも似た開国には、日本側にも大いなる激論が巻き起こり、各地で反乱や、幕府内での騒乱が巻き起こっていた。
日本はそんな時代を何とか乗り切った。開国派したが、植民地になることはなかった。これも一種の奇跡と言ってもいいだろう。
もちろん、これには、
「地の利」
というものが存在した。
諸外国とすれば、その後のアジアでの自分たちの権益を考えると、日本を植民地にするよりも、通商条約などを結ぶことで日本との関係を無ず部方が得策だと考えたのだろう。
ただ、老司裁判権や関税の問題など、あくまでも不平等な条約で、日本が諸外国の意志にそぐわないと判断されれば、どうなっていたことか、それを思うと恐ろしい気もする。
ただ、日本、いわゆる明治政府も努力はしている。鹿鳴館などを建設し、諸外国に日本がいかに発達を考えているかをアピールしたり、
「富国強兵」
と言われる、同時に推進することは一種の矛盾とも思えることを実際に行い、ある程度の成果を見たことは、これひとえに明治政府の努力の賜物と言えるのではないだろうか。
そんな時代に、鎖国から開国へと導いた朝鮮を巡って、挑戦国内の内情に付け込んで、日本軍が関与したクーデターが発生し、失敗には終わったが、そのために影響力を強化してきた清国に対し、朝鮮開国派がさらにクーデターを起こした。またしても失敗であったが、これにより、さらに日本の影響力は微妙となってきた。
「朝鮮の独立が守られないと、南下政策を取って朝鮮を虎視眈々と狙っているロシアが勢力を増してくる前に、清国を破る」
という目的から発生したのが日清戦争だった。
日清戦争は、
「眠れる獅子」
と言われたアジア最強国の呼び声が高い国であるだけに、最近やっと出てきたような小国「日本」には荷の重い相手だった。
それでも、それまでに欧米列強に半植民地と化した清国は軍備整備もままならなず、さらに西大后の浪費癖により、さらに軍備に困窮していた清国軍の軍備は老朽化したものだった。
富国強兵政策によって最新鋭の軍備を誇り、士気も旺盛な日本軍にとって、当時の清国軍は敵ではなかった。清国は無情にも敗れ去り、下関条約にて、莫大な賠償金と、遼東半島、台湾の割譲などの講和条約を結ぶことで、日本の勝利となった。
ただ、その際に遼東半島の返還を求める、ロシア、フランス、ドイツといういわゆる「三国干渉」により、日本は賠償金の増額と引き換えに、泣く泣く遼東半島を返却することになる。
さすがに当時の日本の国力ではロシア、フランス。ドイツの三国を相手に戦争するにはあまりにも無謀だったからだ。
ロシアのように遼東半島に国境が近い国は当然の主張であろうが、何も関係のないフランスドイツがこの話にどうして乗ったのかというと、日本に遼東半島を返却させることで清国にさらなる賠償金を課して、それに乗じ、貸し付けを行い、その条件として、さらなる租借地を得たり、開港地域を増やしたりという利益を得ようという思惑があったと考えられる。
日清戦争の効果で、朝鮮は独立国として世界に証明されることになったが、問題はロシアの南下政策にあった。
すでに清国は虫の息となっていて、滅亡が秒読み態勢だった。そのこともあって、日本の仮想敵国は完全にロシアとなったのである。
ロシアは清国と通じ、密約を結んだりして、日本をけん制する。日本もロシアの脅威をいかに解消させるかということで、国内は真っ二つに割れていた。
ロシアと親しくすることで、戦争を回避しようとする派。あるいは、他の国と同盟を結ぶことでロシアの脅威をけん制しようとする派。それぞれが存在した。
他の国ということで候補に挙がったのは、イギリスだった。イギリスはクリミア半島におけるロシアの南下政策を阻止することができたので、ロシアが今度目をつけたのは、極東であった。シベリアから満州、モンゴルを巡る極東がロシアの南下背策の目玉となった。満州の次に見えるのは、朝鮮半島である。またしても、朝鮮半島が日本の防衛線として浮上してきたのである。
そんな極東での不安定な治安を他国も気にして見ていたことだろう。さらにいくら清国を破ったとはいえ、しょせん滅亡寸戦の国だっただけに、列強も日本のことを、
自殺症候群
時代は、昭和四十年代終盤に遡る。同時の世の中は戦後の布教を乗り越えて、その後に訪れた空前の好景気によって、戦後復興を見事に果たすことができた。もちろん、東西冷戦などという暗い時代がその背景にあったのは間違いないが、日本という国は、その間隙をぬうようにして、うまく立ち回ったというよりも、超大国の思惑があってのことだが、奇跡とも言える好景気を迎えることができた。
オリンピック招致という好タイミングにも恵まれ、インフラ整備や需要の拡大、さらには日本人独特の発想から、加工という分野でその実力をいかんなく発揮し、輸出という一番利益となる部分で、高収益を挙げた。それが空前ともいえる日本の復興に役立ったのだが、やはり根本には、
「日本人としての気質:
が大いに実力を発揮したに違いない。
元々日本人というのは、開発という部分で昔から長けていた。戦前の日本も決して世界に劣ることのない開発力をいかんなく発揮し、日清戦争から大東亜戦争敗戦までの約五十年というのは、日本紛れもなくアジアの派遣を握った時代と言っても過言ではないだろう。
特に明治時代の日本というのは、諸外国に対して謙虚で、国際法も忠実に順守していた。厳格な軍紀も順守された統制された軍隊だった。すべては、
「欧米列強に追いつき、追い越すため」
と言ってもいいだろう。
強大なアジアの大国、清国に挑み、さらには無謀ともいえるロシアとの戦争。一括りで言うには無理のあるこの二つの戦争は、元々の主旨も違っていた。
当時、清国の冊封国として、まるで属国のような支配を受けていた朝鮮を、日本は開国させた。ただ冊封というのは、属国としてはまだ緩いものであった。いわゆる植民地のような直接支配ではなく、朝貢制度やその見返りとして他の国から責められた時に、軍を送り助けるなどと言った、一種の封建制度のようなものだった。冊封された国に主権はあり、立派な独立国であるため、一種の鎖国のような形をとっていたので、開国させられた朝鮮としても、開国に対しては国内では賛否両論があった。
それは日本が開国した時と事情は似ている。
「攘夷」
という言葉の元、外国人の介入を嫌う一団があり、しかし、黒船による、
「艦砲外交」
と言われる一種の脅迫にも似た開国には、日本側にも大いなる激論が巻き起こり、各地で反乱や、幕府内での騒乱が巻き起こっていた。
日本はそんな時代を何とか乗り切った。開国派したが、植民地になることはなかった。これも一種の奇跡と言ってもいいだろう。
もちろん、これには、
「地の利」
というものが存在した。
諸外国とすれば、その後のアジアでの自分たちの権益を考えると、日本を植民地にするよりも、通商条約などを結ぶことで日本との関係を無ず部方が得策だと考えたのだろう。
ただ、老司裁判権や関税の問題など、あくまでも不平等な条約で、日本が諸外国の意志にそぐわないと判断されれば、どうなっていたことか、それを思うと恐ろしい気もする。
ただ、日本、いわゆる明治政府も努力はしている。鹿鳴館などを建設し、諸外国に日本がいかに発達を考えているかをアピールしたり、
「富国強兵」
と言われる、同時に推進することは一種の矛盾とも思えることを実際に行い、ある程度の成果を見たことは、これひとえに明治政府の努力の賜物と言えるのではないだろうか。
そんな時代に、鎖国から開国へと導いた朝鮮を巡って、挑戦国内の内情に付け込んで、日本軍が関与したクーデターが発生し、失敗には終わったが、そのために影響力を強化してきた清国に対し、朝鮮開国派がさらにクーデターを起こした。またしても失敗であったが、これにより、さらに日本の影響力は微妙となってきた。
「朝鮮の独立が守られないと、南下政策を取って朝鮮を虎視眈々と狙っているロシアが勢力を増してくる前に、清国を破る」
という目的から発生したのが日清戦争だった。
日清戦争は、
「眠れる獅子」
と言われたアジア最強国の呼び声が高い国であるだけに、最近やっと出てきたような小国「日本」には荷の重い相手だった。
それでも、それまでに欧米列強に半植民地と化した清国は軍備整備もままならなず、さらに西大后の浪費癖により、さらに軍備に困窮していた清国軍の軍備は老朽化したものだった。
富国強兵政策によって最新鋭の軍備を誇り、士気も旺盛な日本軍にとって、当時の清国軍は敵ではなかった。清国は無情にも敗れ去り、下関条約にて、莫大な賠償金と、遼東半島、台湾の割譲などの講和条約を結ぶことで、日本の勝利となった。
ただ、その際に遼東半島の返還を求める、ロシア、フランス、ドイツといういわゆる「三国干渉」により、日本は賠償金の増額と引き換えに、泣く泣く遼東半島を返却することになる。
さすがに当時の日本の国力ではロシア、フランス。ドイツの三国を相手に戦争するにはあまりにも無謀だったからだ。
ロシアのように遼東半島に国境が近い国は当然の主張であろうが、何も関係のないフランスドイツがこの話にどうして乗ったのかというと、日本に遼東半島を返却させることで清国にさらなる賠償金を課して、それに乗じ、貸し付けを行い、その条件として、さらなる租借地を得たり、開港地域を増やしたりという利益を得ようという思惑があったと考えられる。
日清戦争の効果で、朝鮮は独立国として世界に証明されることになったが、問題はロシアの南下政策にあった。
すでに清国は虫の息となっていて、滅亡が秒読み態勢だった。そのこともあって、日本の仮想敵国は完全にロシアとなったのである。
ロシアは清国と通じ、密約を結んだりして、日本をけん制する。日本もロシアの脅威をいかに解消させるかということで、国内は真っ二つに割れていた。
ロシアと親しくすることで、戦争を回避しようとする派。あるいは、他の国と同盟を結ぶことでロシアの脅威をけん制しようとする派。それぞれが存在した。
他の国ということで候補に挙がったのは、イギリスだった。イギリスはクリミア半島におけるロシアの南下政策を阻止することができたので、ロシアが今度目をつけたのは、極東であった。シベリアから満州、モンゴルを巡る極東がロシアの南下背策の目玉となった。満州の次に見えるのは、朝鮮半島である。またしても、朝鮮半島が日本の防衛線として浮上してきたのである。
そんな極東での不安定な治安を他国も気にして見ていたことだろう。さらにいくら清国を破ったとはいえ、しょせん滅亡寸戦の国だっただけに、列強も日本のことを、