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噺は世につれ 世は噺につれ

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「待ちなっ! 待ちなっ!」
「あっ、何するんだい? いきなり後ろから抱き着いて! なんだい! この人はっ!」
「五両の金がないから身投げしようってんだろう? ほら、五両やるから身投げなんかよしな!」
「離しておくれよっ! あたしゃ身投げなんかするんじゃないよ! あんまり歯が痛いから戸隠様に願掛けしてるんだよ!」
「嘘つけ、それが証拠にほら、袂に石がいっぱい入ってらぁ」
「こりゃ石じゃないよ、納める梨だよ」

 今昔亭ゑん朝は深々とお辞儀をすると、割れるような拍手の中、高座を下りて行った。
「お疲れさまでした」
 前座に迎えられて楽屋に腰を下ろし、カバンを引き寄せてごそごそと探る、ミントタブレットを取り出すためだ。
 ゑん朝はつい最近まで煙草を吸っていた。
 昔の楽屋はいつでも煙草の煙が漂っていたものだが、最近はめっきり吸う者が減って匂いもだいぶ薄れて来ている、そうなるとどうも吸いにくい、それに噺家は喉を使う商売、吸わないに越したことはないと一念発起してやめたのだが、まだどうも口さみしい時がある。
 高座から降りて来た時はその最たるもの、当然ながら高座では神経を集中しているから降りて来た時は一本やりたくなるのが愛煙家の心情、だがここで誘惑に負けてしまえば元も子もなくなるかもしれないのでミントをカバンに忍ばせているのだ。
 そんな時、前座が小皿を掲げて来た。
「差し入れの梨があるんですけど、おひとついかがですか?」
「お、梨か、そいつは奇遇だな」
 梨が出て来る噺は多くない、ゑん朝の持ちネタの中では今演った『佃祭り』一本だ。
 独演会や二人会なら別だが、寄席では今日の演目を決めて楽屋入りするわけではない、楽屋に入ってからネタ帳を見て決めるのだ。
 ネタ帳には前座からずらりと演目が書き込まれている、ネタがかぶらないようにするためだ、そしてここまでの流れを見ながら演目をその場で決める、だから今日ここに梨があると言うのは全くの偶然、奇遇なのだ。
「丁度口さみしいと思ってたところだ、こいつは嬉しいね」
 ゑん朝は梨を一切れフォークに刺すとしゃきっと噛んだ。
 冷たく甘い汁が口いっぱいに広がり、一席終えた後の火照った喉に沁みいる。
「うん、美味い、佃祭りを演った後だと余計に美味く感じるな」
「歯も綺麗にしてくれるそうですね」
「そうらしいな、汁気も多くて喉も潤わぁ、噺家にはもってこいかも知れねぇな」

『佃祭り』のオチは今ではちょっとわかりにくくなっている、江戸時代、梨は歯を溶かすと考えられていた、それゆえに戸隠神社に願をかけて梨を断つのが治療になると信じられていたのだ。
 ところが今では梨は歯に良いと言うことがわかっている、確かに梨を齧ると前歯がつるつるになるくらいだ、だから今では戸隠様と梨、歯痛の関係を説明しておかないと『佃祭り』のオチは理解されない、『石』と『梨』を掛けた単なるダジャレと受け取られてしまう可能性があるのだ、その一方で落語愛好家には余計な説明となり噺の世界に入り込みにくくなると言う弊害もある、痛しかゆしと言ったところだが現代ではそんなことも多い、古典落語の世界と現実が少しづつだが確実に遊離して行っているのだ。
 特にこのところは世の中の変化が急で、直に七十になろうとしているゑん朝には付いて行けないこともあり、むしろ慣れ親しんだ古典の世の中に住んでいたならしっくり来るだろうと思う時すらある。

(一杯引っかけてから帰るかな)
 ついこの間まで残暑が厳しかったが、急に秋らしくなって夜は少し肌寒いくらいになった、身に沁みるほど冷たいのは勘弁願いたいが、これくらいのひんやりした夜風はむしろ心地良い。
 この近くに馴染みの居酒屋がある、ごく庶民的な雑然とした店で、気取らない、しかし美味い肴があり、燗の付け方も気分を言えばピタリと合わせてくれる。
 楽屋入りの前に軽く腹拵えはしているが、少し時間が経った今では腹は三分目と言った辺りだ、その上実家の義姉が体調を崩したとあってカミさんは里帰りしている、幸い義姉の具合はそう悪くなく一週間も静養すれば良いらしいが、その間年の行った両親の世話をする者がいないと言うことでしばらく帰って来れない、このまま家に帰ってもありつけるのはカップ麺くらいだ……梨の偶然で気分も良いことだし、このまま気分良く一日を終えたい。
 少しだけ遠回りにはなるが、ゑん朝の足は馴染みの店へと向いた。

(おや?)
 大通りにかかる長い歩道橋の真ん中辺りに女の姿があった。
 薄手のコートをまとい、腰までかかる長い髪を夜風になびかせて手すりに凭れている。
(まさかね……)
 街の灯りではその表情までははっきりわからないが、なんとなく力を落として思いつめたような風情を感じる、(もしや身投げか?)と思ったのだが、(『佃祭り』を演ったせいだろう)と思い直し、通り過ぎようとしたのだが……。
(梨の偶然もあったぞ、もし本当に身投げするつもりだったら、知らんぷりは寝覚めが悪いや)そう思い直して歩道橋の階段を登って行った。

 近づいて行くと女の表情がわかって来る、やはりかなり思いつめたような表情に見える、すっきりとした和風美人だけに余計にそう見えるのかもしれないが……。 
「良い晩ですね」
「え?」
 そりゃ見知らぬ男からいきなり声を掛けられれば驚く、まあ、不審者とまでは見られないだろうと思うが……。
「何か御用ですか?」
「いや、別に用と言うほどのことは……ただちょいと気になったもんでね」
「気になった?」
「あたしは見ての通り噺家でね、今日は身投げが出て来る噺をやったんだよ」
「身投げするように見えました?」
「勘違いならそれで良いんだがね」
「ここから飛び降りようなんて思ってませんよ」
「なら良いんだ、要らないおせっかいだったね」
「でもまるで外れでもないかも……」
「ん?……と言うと?」
「ここから飛び降りて車に轢かれたらどう考えても痛いでしょう? 大怪我だけして死ねなかったら最悪だし……死ぬならもっと楽に、確実に死ねる方法で死にます」
「死のうと思ってた、と言うところは当たってた?」
「……まだ迷ってるってところですけど」
「そりゃ穏やかじゃないな」
「でも、あなたの見ている前で死にはしませんからお構いなく」
「そうかい、それなら良い……とも言いにくいな……そうだな、一杯ひっかけてから帰ろうと思ってたところだ、見ず知らずの俺だが話すだけでも話してみたらどうかな、それで落ち着くかも知れないしね、奢るよ」
「見ず知らずの方に……でもこれも何かのご縁なのかも知れませんね」
「袖摩り合うも他生の縁と言うからな……」


「居酒屋で良かったかな、あんたみたいな美人と一緒ならバーの方が格好つくんだろうが、腹が減ってたもんでね」
「こっちのほうがずっと良いです、あたしもお腹空いてるから」
 
 カミさんや女流噺家、寄席の関係者ではない女を連れて馴染みの店に行くのはちょっと気が引けたので、すぐ近くにあるチェーン店の居酒屋に腰を落ち着けた。
 二人用の個室があるこの店でならば込み入った話もしやすいだろうと思ったからでもある。
作品名:噺は世につれ 世は噺につれ 作家名:ST