短編集 くらしの中で
自分を認める その一
この間早朝から庭仕事やら総菜作りなどせっせと働いて、出来上がった総菜を少しご近所さんの食欲が無いと心配している人に持って行った。
続けて何日か色々持って行き、その時に白いエプロンをした恰好を見てかいがいしく思ったのか、まめやなあ、頑張り過ぎじゃないと驚いた顔をしていた。
実を言うと、あのように朝から昼過ぎまでびっしりと色々働くのは滅多にないことで、翌日は朝からだらだらして、昼前から腰を上げて庭の花の写真を撮ったり洗濯物を干したりしたのだ。
自分のやってることには相当大きな波があると思っているが、私の性格として、いつもきちんとしてせっせと働かなければという意識はなくて、そんな生活を悪いとも思っていない。
総菜を持って行った家の人はいつ行っても庭には草も生えていないし、お部屋に上げていただくと整然と片付いている。
その方は、自分は鬱のような気がする、と心配している。
どういうところが鬱なのと聞くと、食欲がない、身体がだるい、だから鬱ではないかなあと思うと言っていた。
私もあまり食べたくない時もあるし、夕方になると身体が重くてだるい時はしょっちゅうであるが、自分が鬱だと思ったことはなく、従って何も心配しないのである。
食べたくなかったら食べなくても良いし、極小の缶ビールに刺身とか肉とかでつまみを作って食べて、昼からごろごろしているときもある。畑も草を引こうと思う時だけ引く。だから先日刈り取った小菊の枯れ枝は畑に山積みになっている。
パソコンではブログを四つと小説投稿サイトに時々書いているが、書きたくないときには書かない。写真を撮ろうと思いついた時車で近場まで出かける。
人は、大変でしょうと言うが、大変でもなくお遊びのような気持ちなので本人は至って気楽なもんだ。
子供たちが私を必要としていた時期には、必死になってやることはやった。が、今は何も大変な思いをしてやることは何一つないのだ。
作品名:短編集 くらしの中で 作家名:笹峰霧子