短編集 くらしの中で
辛い生き方はどこから来るのか その一
以前の章でも少し触れたが、老いの域に達して辛い生き方をする者は満たされることのない精神状態を埋める方法がない。
乞うて手を伸ばし掴もうとしても、浮遊する霧の欠片の如く、掴んでも掴んでもふわふわと逃げて行く。
当人も老いた自分がそこまで来るとの自覚はさらさらなかった。随分気ままに放言し、他人を傷つけていることすら気が付かなかった、と過去形ではなく今でも気が付いていない。
優しかった連れ合いのような愛情を今更欲しがっても誰も満たしてくれる者はいないのだ。歳をとるにつれて脚は弱くなっていくけれど、気持ちだけは足を地に付けていないと、そのつけは自身の脳に影響する。
誰に寄りかかろうかと右往左往して探しても、男ができるわけでなし、女が老女をそこまで愛し抜くことは不可能だ。
私自身もかなり傷つけられたが、自分なりに分析するところでは、精神年齢が実に低い人物であったのだとようやくわかった。
本人が縋っていたのは男の代理になるような友と称する人達だった。
残念ながら、それは本人の思い込みでしかなくて、威圧的な言葉を男性の言葉として感じていたにすぎなかったのだ。
今では待って待っていた人が来なくなって頭がふらふらになり、お眼鏡に叶わない私を頼りにすると言いだした。私とて老婆に頼られるほど強くもないが、頼られればできることはしてあげた。
車で病院に連れて行ったり、秋桜を見にドライブにも連れて行き大喜びだった。
少し回復したころ、ひょっこり待っていた人がやって来たというが、それっきりだと又不満を言い始めた。
落ち着いた結果は、お金で人に来てもらうこと。
1時間2千円で週一の定期的な訪問だ。
一時間の半分は掃除をしてもらって、あとの時間をおしゃべりの相手になってもらう契約をした。
ひと月にほぼ8千円の費用を工面するのは年金暮らしの者には大きな出費だ。働けないというのなら介護を受けるという意味でわかるが、さしてできないようでもないので、本人が要求しているのは確実に足を運んでくれる話し相手が欲しいということ、お金でそれを買うということになる。
今は有料の話し相手の仕事もあるそうだ。
作品名:短編集 くらしの中で 作家名:笹峰霧子