みずいろ鏡
私は思い切って尋ねてみることにした。気がつけば先生の額にも汗が浮かんでいた。しかしその表情は汗も暑さもまるで気にしていないように涼しげなものだった。
「何?」
正直答えを聞きたくはない質問。
それでも尋ねずにはいられない自分がいる。
だから、私は敢えて試みよう。
「九月で学校辞めちゃうって本当ですか?」
絞り出すように言葉を紡ぎ出した。日の光はますますきつくなっていて、水面は底のブルーと光が融け合ってまた不思議な水色になっている。プール全体が巨大な水色の鏡のようだった。そこに私たち二人が映っているのかどうかはここからはわからない。
「本当よ」
思わず「どうして」などといった言葉が喉から出そうになる。しかし先生はそれを許さないかのように続けた。
「正確に言うならね、九月にはもういないわ。田舎帰んなきゃいけなくなっちゃったのよ。突然父親が倒れちゃってね。あ、あたし高二の妹がいるんだけど、まぁ母親と妹だけじゃどうにもならないみたいなの。ここは長女のあたしがどうにかしてやんないとね。だから――」
やめて。その先は聞きたくない。だが耳を塞ぐことは許されない行為の様に思えた。全てが白日の下に晒される。それをきっと私は心のどこかで望んでいたのだから。
「夏休みが終わったらもう会えなくなるわ」
その言葉に予想通りに私は打ちのめされるはずだった。
決定的な終わりを突き付けられるはずだった。
涙が――――溢れかけたその時、先生は動いていた。
気が付いたら先生が目の前にいて、
そして初めて抱きしめられた。
ずっと憧れていた瞬間。
先生の腕と白衣に包まれたいという願い。
こんなタイミングで叶うものなのか。
「だから、あんたには思い出をあげる」
そう耳元で囁かれて、私は思わず胸の中から顔を上げて先生を見た。
「 」
その時先生は確かに何か言ったはずだった。ただそれは私には聞き取ることが出来ず、思わず聞き返そうとした時、私の唇は先生の唇で塞がれた。
少し煙草の味がするキス。
でもその苦さが今は嫌じゃなかった。甘ったるいだけのキスなんて先生らしくない。やっぱり先生は先生なんだ。そんな当たり前のことを、最高の瞬間であるはずの今考えてしまうのは何故だろう。
わからない。でも先生がやっぱり好きです。
そう確信した瞬間、先生は顔を離した。なんてあっけない幕切れ。すぐに私たちは真夏の中に引き戻された。先生はと言うと、またいつものにやにや顔を浮かべていた。私は思わず口に出してしまう。
「……これで終わりですか」
「そ。思い出っていうのはね、適度に浅くないとダメなものよ。あんまり深いのは体験になっちゃうから」
しれっとした答えが返ってきて、なんだか体の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。そんな私を見ていた先生は、
「あー、もう仕方のない」
そう一言ぼやくと白衣の内ポケットから取り出した紙に何やら書いて私にそれを握らせた。何やら住所のようなものが走り書きされているのがわかった。
「まだしばらくはそこにいるわけよ。もし来るって言うなら、今日の続き、してあげっから」
そうか、夏休みはまだ終わっていなかった。