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みずいろ鏡

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 熱い風が吹き始めた季節。私は一人プールサイドに立っていた。八月の光を反射する水面は目が眩むようだ。少しだけ目を閉じてしまいたくなる。でもそれを許さない何かがそこにはあるような気がした。
 容赦なく照りつける光によって、段々と汗がにじんでくるのがわかる。額からも汗が垂れ落ちてきた。一滴、二滴と乾いたタイルに落ちてはその姿を消してゆく。僅かな跡だけがそこには残った。
 スカートの裾が汗で膝にへばり付き始めた。持っていた鞄をそこらに放り出して、空いた左手で裾を正す。そうしてから少し考えるのはこれからのこと。
 そう。この水の中に飛び込もうかどうかということ。
 私はまるで許しを請う様に天を仰いでからそっと目を閉じた。瞼の隙間からも向こうの世界が手に取るようにわかる。
 心はそこで決まった。目を開けて広がる光景を真っ直ぐに見据える。私一人から見ればとても大きく見える世界。ローファーをきちんと揃えて脱いでから、私は飛び込み台へと踏み出した。ソックス越しに熱さが伝わってくる。跳ね回りたくなる気持ちをぐっと堪え――

 ――――ざぶん

 私は鏡のような水の中に飛び込んだ。ゴーグルを付けてないから目を開けるのは少し辛い。それでも見ておかなければならないものがある。青く塗られた底の色と水面から差し込む光によって作られる水色。見たかったのは多分これなんだと思う。
 泳ぎ回ってみようと考えた時にはもう遅かった。ブラウスもスカートもすっかり水を吸い込んでしまっていて、身体は自由を奪われていた。
 それならば、と、私は重くなった身体を無理矢理引きずり上げるように水を掻いた。そうして水面から顔を出して、泳ぐのではなく浮いてみようと思った。
四肢を水に投げ出すという感覚は久しく味わっていなかったものだ。水面から仰いだ景色は普段の視点からは絶対に想像が及ばないものだろう。目に映る全ての青空に、自分が今どこにいるのかを忘れさせられそうになる。そうしていると何処からか吹いてきた南風が私の顔を撫でた。水面がすこしだけ騒がしくなる。空と水との同化はそこで打ち切られたようだった。プールの真ん中に立ってまた空を仰ぐ。ずぶ濡れになった身体と熱い頭で考えるのは彼女のことなのだろうか。今の私にはわからなかった。


 しばらくの間私はそのままプールの真ん中に立ち尽くしていた。しかし段々ぐっしょり濡れた衣類が気になってきたので、一旦プールから上がることにした。替えの服は鞄に入れてきたから問題は無いけれど、制服の方は少し乾かしたほうが良さそうだった。どこに干そうかとずぶ濡れのまま辺りを見回していると、フェンスのほうから声がした。
「こらー。水泳部でもない生徒が何勝手に泳いでんのさ」
 振り返ってみるとフェンスの向こうに何時の間にか先生が立っていた。出で立ちはいつもどおり。いい加減に束ねた髪に白衣という、本人曰くのところ理想的科学教師ファッションだそうだ。私はそっちに歩み寄って先生とフェンス越しに向かい合った。にやにやとした嫌味な笑みを浮かべながら、先生は私の言葉を待っているかのようだった。
「どのあたりから見てたんですか?」
「不審な女子生徒がフェンスを乗り越えたあたり」
 最初からかよ。
「最近さー、何か職員室でも嫌煙だのなんだのうるさいのよねー。まったくこっちはくそ面倒な補習やって戻ってきてんだからさ、煙草の一本くらい好きに吸わせろっての。まぁそいで仕方ないから外出て吸おうと思ったら――ってわけ」
「解説と愚痴を同時にありがとうございました。で?」
 先生はきょとんした顔をした。
「で――、って何よ」
「止めようかとか思わなかったんですか」
 しばしの沈黙。水なのか汗なのかわからない液体が私の身体を滴り落ちる。先生は不思議と汗をかいていない。何故だろうと思った瞬間、突如先生が吹き出した。
「あーっはっはっはっは。止める? 何で? あたしは別に水泳部の顧問でもなんでもないよ」
「そうじゃなくて、もっとなんかあるじゃないですか」
「心配することもないと思ったの。屋上とかなら話は別だけど。まぁどこに不法侵入するにせよ、あんたは死ぬ気なんてないでしょ?」
 にやついた顔を急に真面目に戻して言いやがった。
この人は本当にずるい。
「それは……まぁそうですけど」
 私は上手く言葉を紡ぐことが出来なかった。先生は私の様子がおかしかったのか、またいつものにやけ顔に戻った。
「なによー、あたしに心配されたかったってわけ?」
「違います!」
 掴みかかりたいのは山々だったけれど、フェンス越しなのでそうもいかない。私はただフェンスを掴む両の手により一層力を込めることしか出来ない。
 負けた。この人にはやっぱり勝てない。
 そうはっきりと敗北を噛みしめていると、
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
 そう言うと先生はどこかへ小走りで行ってしまった。
数分が経っただろうか。ずぶ濡れの身体は夏の太陽相手にもまだしぶとく抵抗を試みているが、正直だんだん暑くなってきた。手持無沙汰なまま立ち尽くしていると、
「おーい」
 突然の呼ぶ声に振り返った。
 タオルとプールの鍵をぶら下げた先生の姿が私の視界に飛び込んできた。
「ほれ、使いな」
 そう言ってタオルを投げ渡してきた。
「これ……先生が?」
「他に誰がいるって言うのよ。まぁ遠慮せず使いな。着替えは持ってきてるんでしょ? あ、白衣は間違っても貸さないかんね」
 そう言って白衣の前を押さえる姿に思わず笑ってしまった。
「なに笑ってんのよ」
「なにも。ていうかなんか全部が可笑しくて」
 そうして二人して声を上げて笑った。暑さも何もかも忘れて。


 私は借りたタオルで身体を拭こうと思ったのだけれど、その前にびしょ濡れの制服や下着を脱がなければならないことに気付いた。
「絶対こっち見ちゃダメですからね」
「はぁ? 女同士なんからいいじゃん別に。減るもんじゃないんだからさー」
「精神的に減るんですよ!」
「へいへい」
 先生は意外にもおとなしく向こうをむいてくれた。そして白衣の内ポケットから煙草を取り出して美味そうに吹かし始めた。私はこの時小学校の頃に使っていたポンチョみたいなタオルでも持ってくればよかったなぁと心底後悔した。
 持ってきた体操着に着替え終えた私を見て、先生は呆れたように言う。
「全く随分と用意周到じゃないの」
「ええ、まぁ。こうすれば部活帰りに見えないこともないかなとか思って」
「ったく……なんであんたはこう馬鹿をやるのかねぇ。まったく誰に影響されたんだか」
 そう言って先生は吸いかけの煙草を指でどこかへ弾いた。
「あ、いいんですか? そんなことして」
「別にいいのよ。教師なんだから」
 私の批難は無茶苦茶な理屈であっさりと退けられてしまった。
 それからしばらく私たちは黙り込んだ。先生は眩しそうに目を細めたまま両手を白衣のポケットに突っこんで、どこか遠くを見つめているようだった。でも先生のことだから違うのかも知れない。この人はきっと何も見ていない。遠くも、そして隣にいる私のことも。
「先生、一つ聞いてもいいですか」
作品名:みずいろ鏡 作家名:黒子