Ivy
圭人は、コーヒーカップをシンクに沈めて、結婚式のときのスピーチを思い出していた。原稿は絶対に見せないと言い張って、実際にその通りにした。式が終わった後、可奈は怒っていた。理由は、幼馴染として自己紹介したからだった。その時に交わした会話は、今でも覚えている。
『白樺家って、なんで言わんかったん』
酔っぱらっている新郎をちらりと盗み見しながら、可奈にはもっといい男がいたはずだと思いつつ、自身も酔いの回った頭で可奈の文句を聞いていたが、大声で昔話をする気にもなれず、諫めるように言った。
『今の家に入るまで、めちゃくちゃやったやろ』
『でも、お兄ちゃんがおらんかったら、今のわたしもない』
そう言われて初めて、可奈が、昔話ではなく今の自分たちの話をしているということに気づいた。
『誰にも言わんでいいけど、知っててよ』
可奈は真上を向いて、視線を泳がせた。それが泣き出す前の仕草だと気づいた圭人は、ハンカチを頭の上から落とすように、可奈の顔に被せた。笑いながらそれを手で除けて、瞬きを繰り返した可奈は言った。
『わたしは白樺家の長女で、お兄ちゃんの妹やったことを、今でも誇りに思ってるって』
圭人は、居間のテーブルの上に置かれた封筒を手に取った。最悪の事態を想定して、昨日金庫から出してきたばかりだった。新田を尾行して家まで突き止めるとは、どうかしている。今となっては、それが自分の性格によるものだということも、理解できる。一瞬だけ、見境がなくなる瞬間があって、新田に対して、可奈の平穏を揺るがすつもりなら、やってみろと思ったのも事実だった。
かつて柏原がやったように、圭人は手の上に中身を空けた。少し色の薄くなった、電話番号のメモ。二十一年もの間、普通の人生を歩んで来られたのは、唯一の味方が残した切り札が、手元にあったからだった。台所まで歩いていくと、圭人は、薄緑色に輝くパケをシンクにひとつずつ置いていった。中身は固まっていて、色素が完全に分離している。使い物にならないと分かっていながら、どうしても捨てられなかったもの。ひとつずつに丁寧に書かれた『Q』の文字。十袋がそのまま、残っている。可奈はあれ以来、薬に手を出すことはなかった。
「もう、いいっすよね」
圭人は呟いた。柏原の言う通り、この封筒は自分のためでもあった。圭人は『Q』のパケをひとつずつ開くと、中身を全て流した。空になったパケと電話番号のメモをボウルの中に入れて、ライターで火を点けた。
ひとつの塊になった炎は、過去を包みこんで逃がさない。それは、もがくように丸まっていき、やがて塵に還る。
黒く焼け焦げながら、跡形もなく。