Ivy
溝口はシフトレバーに触れて、ギアを一速に入れた。駐車場の潰れたゲートを抜けて、見張っていた位置からはコンテナで見えなかった裏に回ると、クラウンが停まっているのが見えた。人は乗っていない。事務所のドアは開けっ放しで、人の気配は完全になくなっていた。深川は宙を仰ぐと、ギャランから降りて、クラウンの周りをぐるりと回った。ザンバラに預けた日から、特に変わった様子はない。運転席から降りた溝口は、合い鍵でクラウンのトランクを開くなり、言った。
「見てください」
赤谷の死体はそこにはなく、ビニールシートすら取り払われて、クラウンのトランクルームは新車のように、空っぽになっていた。
岡崎は、タミーがハンドルをコツコツと叩きながら、信号が青に変わるのを待つ様子を見て、髪で隠すようにしながら笑った。酔っていない、神経質なタミー。いつも、短い金髪頭をレーダーのように空に向けて、色々な情報を集めている。勝男から昨日届いた『特に動きなし』という短い返事は、却ってタミーを苛つかせている。
「マリンちゃん」
タミーは、セドリックの車内が狭くて仕方ない様子で、神経質に体の向きを調整しながら言った。
「この在庫を捌いたら、おれらは抜けよう」
ザンバラがアパートから引き上げてきた、最後の在庫。『O』に営業をかけて、ひと晩かけて売り捌けば、一週間もかからない内に空っぽにできる。タミーは、岡崎の横顔を見ようとして、その目がまっすぐ自分の方を向いていることに気づいた。
「おれらって……、わたしもってこと?」
「あかんかな?」
タミーが言うと、岡崎は首を横に振って、笑顔で言った。
「ううん、連れてってほしい。でも、金髪のハゲはやめてほしいかな」
タミーは自分の頭に触れて、バツが悪そうに笑った。
「そんな似合わん?」
「いや、同じ格好やったら、逃げた先でもすぐ分かるかも」
岡崎はそう言って、酔ったタミーにやるように、その金髪頭を撫でた。いつものように胸の前に抱え込むように引き寄せると、タミーは困惑した様子で手をばたばたと振った。
「ちょっと待って、運転中」
「停まってるし、いいやん」
岡崎が言うと、タミーは抵抗する力を緩めたが、ふと気づいたように顔を上げた。
「おれ、酔ったらこんなことしてるん?」
「十八禁バージョンもあるけど」
笑いながら岡崎が言うと、タミーは居住まいを正して、ハンドルに両手を置いた。信号が青になり、再び流れ出した車の列を追い越しながら、言った。
「酒、ちょっと控えるわ」
「素面でも、できるようになってよ」
岡崎はそう言うと、タミーの左耳にくっついたままになった服の繊維を、指先で取った。セドリックのトランクには、ザンバラが回収した在庫は、昔から仕分けに使っていた貸し倉庫に隠されている。『とりあえず、持ってうろうろしたくない』というザンバラの言葉を思い出して、タミーは笑った。その場しのぎでも何でもいいから、とりあえず自分たちが『安全』としている場所に、商品があればそれでいい。今のところは。倉庫の近くまで来たタミーは、ヘッドライトを消した。夜に動き回る車は目立つ。路肩に停めてひと息つくと、勝男の携帯電話を鳴らした。
「あー、特に動きなし。あの自衛隊員もおらんしな。また駐禁切られとるがな」
勝男は、自分の車に巻かれたオレンジ色の輪を見て、肩を落とした。いつもの居酒屋通り。タイヤをまたぐように書かれた、チョークの白い線。遠くに『マルイチ水産』のネオンが見えている。あの前には停めないようにしていたが、少し場所を変えても、路駐であることには変わりはない。
「また、納付拒否するんすか? ちょっと、今はやめたほうがええんちゃいます?」
タミーの言葉に、勝男は笑った。
「ヤバイんなら、ますます納付行ったらあかんやろ」
動きなしとは言ったが、それは自分のことだと言っても差し支えないぐらいに、ここ数日は仕事をさぼっていた。勝男は車体にもたれかかると、わかばを一本抜いて、火を点けた。タミーは縄張りを洗い直せと言っていたが、そんなことをすれば、何かが起きているということを悟られて、余計にトラブルが増えるだけだ。タミーは『それとなく』と簡単に言うが、その五文字を実現するには、この業界は危なっかしすぎる。勝男は煙草の煙を宙に吐きながら、ポケットから鍵を取り出した。いつの間にか車の通りはなくなって、平日だから人もいない。意地でネオンを灯している店もあれば、いさぎよくシャッターを閉めている店もある。
「一旦、倉庫に来てほしいです。在庫を投げ売りするから」
タミーの言葉に、勝男は笑った。
「投げ売り? 引退すんの?」
「ちょっと最近、ヤバすぎるでしょ」
トラックのエンジン音が聞こえてきて、勝男は体を少し前かがみにすると、車体の冷たさに身を預けるようにしながら、言った。
「運転できるかな」
日本酒三合で、結構な酔いが回っている。ディーゼルエンジンの音が割り込んできて、勝男は空いている方の耳を押さえながら続けた。
「明日行くわ」
電話を切って振り返ったとき、通話中ずっと、ライトを消したトラックが自分の真後ろでアイドリングしていたことに気づいて、勝男は飛びのいた。
「おい! なんやねんお前」
トラックが返事するようにゆっくりと動き出し、意志を持った生き物のように勝男の体を押した。足がついていかずに尻餅をついた勝男は、クラッチが高回転で繋がるときの、唸り声のような音を聞いた。バンパーが勝男の顎を折り、車体の下に巻きこまれた勝男は、咄嗟に手を寝かせてやり過ごそうとしたが、フレームから飛び出したコの字型の鋼材に脇腹を掴まれ、加速するトラックに合わせて引きずられた。服が一瞬で裂けて皮膚がむき出しになり、引きずられている感覚が火傷のような激痛にすり替わった。勝男はフレームを掴もうと右手を伸ばしたが、指先が回転するプロペラシャフトに触れて、思わず手を滑らせた。エンジンが轟音を上げながらギアを上げ、交差点手前の段差にさしかかったとき、車体が一気に沈んで勝男の頭の骨を潰し、コの字型の鋼材が腹から首の付け根までをほとんど切断するように通り抜けた。トラックはようやく厄介な荷物から解放されたように、流れがまばらなバイパスに合流するのと同時に、ヘッドライトを点けた。
倉庫のシャッターを開けたタミーは、岡崎が運転席に座るセドリックを手招きした。シャッターを完全に閉じてから電気を点けて、ほぼ同時に岡崎がセドリックのエンジンを切った。場違いに広い倉庫は、元々のオーナーが顧客だったことから無償で借り受けている物件で、入口付近のフォークリフト一台以外は、ほとんど物も置かれておらず、がらんとしていた。蛍光灯もやる気がなく、全体の半分程度しか照らせず、真っ暗な奥の方は、夜だと一層気味が悪かった。タミーは作業台の上に置かれた段ボール箱の中を覗き込み、中身が全て揃っていることを確認して、小さく息をつくと、セドリックから降りてきた岡崎に言った。
「全部あるわ。とりあえず、ひと安心やな」