幽体離脱
「ちょっと津田くん」
徹夜明けの眠気と戦いながらパソコンのモニターをにらんでいた俺を、女編集長が手招きした。なんとなく嫌な予感がした。ふだん小ジワを気にして目を細めない彼女が、のどをくすぐられた猫のような表情をしている。またろくでもないことを言ってくるに違いないぞ、と辟易しながら俺は閲覧していたオカルトサイトの投稿記事を保存して立ちあがった。
「なんすか?」
きつい香水のにおいから鼻を守るため口だけで息をしながらデスクへ向かう。
「取材お願いしたいんだけど」
四十路の女編集長は、イスにふんぞり返ったままそう言った。言葉づかいは慇懃だが、態度は不遜だ。若手の独身社員には猫なで声を使うくせに、俺みたいな所帯持ちに対してはゴミでも見るような視線を向けてくる。
「至急これの体験レポートを書いてちょうだい」
そう言って彼女はipadの画面を俺に向けた。
「なになに……美肌効果があるとちまたで話題のアラブ式ヨガ。たった一ヶ月で十歳も若返る? 編集長、これまるっきり畑違いっすよ」
この手の記事は、うちの出版社の花形である生活情報誌「nanako」の管轄だ。ちなみに俺も去年まではその「nanako」のデスクで仕事をしていたのだが、運の悪いことにたまたま食レポを書いた寿司店で食中毒事件が起こり、読者から苦情が殺到した。その責任を取らされる形で、オカルト雑誌「レムリア」へ移動となったのである。
「ちゃんと見なさいよ。ほら、ここ」
マニキュと除光液ですっかりツヤを失った爪が、画面の一点をコツコツと叩く。
――ヨガの神秘的な力であなたも幽体離脱してみませんか? 無料体験スクール受付中
「ヨガで幽体離脱ってどういうことでしょう? なんか胡散臭い話っすね」
思わずそうつぶやくと、編集長はギロリと俺を睨みあげた。
「そこをうまく記事にまとめるのがあなたの仕事じゃないの。いい? スクールへ参加した生徒が幽体離脱している写真を撮ってくるか、さもなくばあなた自身が幽体離脱に成功して、その体験をレポートにまとめてちょうだい」
言うことが滅茶苦茶だ。
この女編集長は、うちの会社でブライダル情報誌「ネクシィ」を立ちあげた才媛なのだが、婚活のアドバイスを発信する当の本人がいつまでも独身というのでは体裁が悪いと、オカルト雑誌「レムリア」へ左遷されてしまった。その挫折感や、上層部に対する鬱憤は理解できる。しかし恨みつらみをぜんぶこっちへ向けられては、たまったものではない。
「……まあ、やれるだけのことはやってみますけど」
俺はあきらめて、そのバナー広告を自分の端末へ転送した。
「最悪の場合、写真は富田のところへ頼むことになりますが、良いっすよね?」
恐るおそる編集長の顔色をうかがう。富田というのはフリーのカメラマンで、依頼をすればコンピューターグラフィックなども描いてくれる。オカルト雑誌「レムリア」のスクープ写真は、ほぼすべて彼の合成したCGと言っていい。まったく便利な世の中だが、ひとつ難点なのはこの富田という男が金に汚いことだ。いつも相場の倍くらい制作費をふっかけて、こちらの予算を圧迫する。
「べつにいいわよ、あなたの業務査定にきっちり反映させてもらうけど」
そう言って編集長はフンと鼻をならした。
「ついでにパンフレットもらってきてちょうだい。幽体離脱じゃなく、美容のほうのをね」
やはり興味があったのか。今さら十歳若返ったところで、その高慢ちきな性格を直さないかぎり結婚はできないと思うが。
と心のなかでつぶやき、俺は会社を後にした。
大田区のはずれにあるその雑居ビルは、ウイークリーマンションと廃業したボーリング場にはさまれた四階建ての古い建物だった。エレベーターはなく、ひとたび火災でも起きれば死人の山をきずきそうな狭い階段を上ってゆく。薄暗い階段室の壁には、ところどころ赤いスプレーでアラビア文字の落書きがしてあった。
――神は偉大なり!
そもそもヨガとはインドの発祥ではなかったか。アラブ式なんて聞いたことがない。
くだんのスクールへ行くには四階まで上らねばならなかった。ニコチンタールで目詰まりした肺をフル稼働させ、やっとのことで階段を上りきる。肩で息をしながら鉄扉をひらくと、廊下の突き当たりに「アラブ式ヨガ・スクール」と小さくプレートが嵌められているのが見えた。
「これか……えらく貧相だな」
恐るおそるドアを開けると、リビアのカダフィ大佐みたいなゴツい顔が目に飛び込んできた。
「わっ」
のけぞる俺に「受付」と書かれたテーブルから身をのり出し、カフダフィ大佐はニコニコと愛想良く言った。
「イラシャーイ」
「あのう……幽体離脱の無料体験コースを申し込みたいんですけど」
「ヨクキタナ、アナタデ5人目ヨ」
おどおどしながら申し込み用紙を受け取ると、下駄箱へ靴を放り込み部屋のなかへ足を踏み入れた。
ダンススタジオのようなフローリング張りの部屋で、すでに四人ほどがジャージに着替えている。そのなかに見知った顔を見つけ、俺は「どうも」と声をかけた。
「なんだ、レムリアの津田くんじゃないか」
そう言って目をまるくしたのは、うちと同じくオカルト雑誌「未知との遭遇」を刊行している遠山さんだった。背が低く小太りで、たしか俺より十歳くらい年上のはずだ。
「あの女編集長に言われて来たのかい? 君も大変だなあ」
「遠山さんこそ、お一人で雑誌を切り盛りされて」
「部員を補充するだけの予算が捻出できなくてね。インターネットで情報が飛び交うこのご時世だ、オカルト雑誌なんて読者から見向きもされんよ」
遠山さんは疲れた顔でため息をついた。
やがて先ほどのアラブ人が、カンドーラとかいう白い民族衣装に身をつつんで俺たちの前に姿をあらわした。
「ソレデハミナサン、時間ニナッタノデ始メマショウカ」
遠山さんがそっと俺に耳打ちした。
「おいおい、たった五人かよ」
「まあ内容が内容ですからね。よほどの物好きでもないかぎり、こんなのに参加しないでしょう」
俺たちは簡単なストレッチを済ませたあと、部屋の一角を向いてひざまづき、ひれ伏して床におでこを三度くっつけた。
「……なんか変なヨガですね」
「いや、これはメッカへ向けて礼拝してるんだよ」
それが済むと呼吸法や簡単なヨガのポーズを教わり、あとはそれを繰り返し練習させられた。なんのことはない、ふつうのヨガ教室だ。そのうちに昼休みとなり、全員に折り詰めの弁当が配られた。
「無料スクールのわりには、ずいぶん太っ腹ですね」
俺がそう言うと、遠山さんは早くも弁当に箸をつけながら苦笑した。
「アラブ諸国は食のタブーに厳格だからね。弁当持参にすると、必ずポークカツ・バーガーなんかへかぶりつく馬鹿が出てくる」
中東料理はスパイスが効きすぎて辛いという俺の固定観念をくつがえし、弁当はあっさり味でひじょうに美味かった。しかし一緒に出されたお茶は妙な味がする。麦茶のような色をしているが、まるで薄めた下剤を飲まされているようだ。しかも明らかにアルコールが含まれている感じがした。
「このまずいのは……お酒ですかね?」