短編集73(過去作品)
殺めた相手は誰
殺めた相手は誰
私こと安田信二は、今までに何度も悩んできた。人に言わせれば、たいしたことではないのだろうけど、本人にとってみれば、これほど辛いことはないと思う瞬間が、必ず訪れるのだ。しかもそれが鬱病を誘発することもあって、始末におえない。
鬱病というのは、何かのきっかけで起こる時と、きっかけなど何もないのに陥る時と、両方あるようだ。どちらが私に多いかというと、意外にきっかけなど何もない時の方が多いような気がする。まるで周期的に訪れるような時もあったくらいで、そんな時は最初から分かるのだ。
――ああ、また鬱の入り口だ――
今まで楽しそうに話をしていた人の笑顔が急にぎこちなく見える。
心の底から微笑んでいたと思っていたのに、今はまるで愛想笑いにしか感じない。
そんなことを感じ始めるとまわりの空気に匂いを感じるのである。まるで石のような匂い、激しい日差しを浴びた真夏のアスファルトに容赦なく叩きつけるような夕立の時に感じる石が焼けるような匂い。しかも、そこには普段から溜まっていた埃まで吸いあがるので、微妙に複雑な匂いを醸し出しているのだ。
私が鬱に入る時はいつもその匂いを感じる。
――雨以外でも、同じような匂いを感じたことがあるな――
いつも案じることだ。
しかしすぐに思い出すことはない。ゆっくり考えてゆっくり思い出していく。それが遠い昔の小学生の頃の思い出だからだ。
ワンパクに近い形のある意味怖いもの知らずだった小学生時代、私は友達と表で遊ぶのが好きだった。少々危ない遊びをしたり、危ないところに登ってみたりする、よく言えば冒険心旺盛な子供だった。それがゆえに生傷が絶えなかったりと、結構怪我も多かった。よく骨折もしたりしていて、病院通いもしょっちゅうだった。そんな時、よく高いところから落ちたりしたものだが、そういう時というのは、えてして一瞬呼吸が止まったようになってしまうものである。
「うっ、うっ」
声を出そうとしても声にならない。目の前にまるでクモの巣でも張ったようになり、セピア色のヒビが入って見えるのだ。
それは一瞬だったのかも知れない。しかし呼吸のできない時間が果てしなく続くように思われ、目に血液が集中し、充血することによって熱を持ってくるのが分かる。
そんな時でも不思議なことに鼻は呼吸しているのだろうか? 匂いがわかるのである。その時の匂いというのが、埃と水分を含んだアスファルトからの蒸発してくる微妙な匂いに違いなかった。
鬱状態に入りかける時に、いつもそのことを思い出す。
最初に鬱状態に自分が入ることに気付いたのがいつだったか覚えていない。しかし、間違いなく最初からこの匂いを感じていたし、それが以前に感じた匂いであるということも分かっていた。いつの匂いであるかということは後になって気付いたような気がするが、それでも、何となく分かっていたようである。
――ああ、また鬱状態がやってくる――
突然思うものなのか、ジワジワ思うものなのか、度々陥っている今でさえ、ハッキリとしたことは分からない。突然の時もあるようで、ジワジワの時もある。この違いがどこから来るのか分からないが、どうやら原因のあるなしに由来しているような気がしてくるから不思議だった。
鬱状態に陥る時で、原因が分かっている時はジワジワくるようである。そこには過程がキチンと存在し、納得いかないこともあるが、順序だてたものがあるのだ。しかし原因がハッキリしない時には、襲ってくる鬱状態にも無防備であるため、ある意味突然なのだろう。
鬱状態に入りかけると、目の前の色すら変わってくる。今まで普通に見えていたものがセピア色に変わってくるような気がしてくるのだ。青い空でさえ、少し緑色掛かって見えるような気がしてきて、全体的に黄色味を覚えてくるのだ。
黄砂現象というのがあるが、まさしくそんな感じで、舞い上がる埃がすべて黄色く感じ、なぜか身体に気だるさを覚えるのである。ちょうど夕焼けを見て条件反射的にお腹が減ってきて、遊び疲れたと思う子供の頃の感覚に似たものがある。しかしそこに充実感などなく、ただ、疲れだけを感じるのである。これは苦痛以外の何ものでもなく、それがゆえに、鬱状態に入ったことをいやが上にも思い知らされるのだろう。
全体的に黄色掛かってくるのだから、カラー部分がセピア色に見えるのも当たり前のことである。疲れは最初に足に来るもので、むくみも誘発し、まるで長時間立ちっぱなしの、まさしく「足が棒になる」という状態になるのである。
今回の鬱状態は果たしてどっちなのだろう?
原因らしいことがないでもないが、あったとしても今さら覚えていない。後から考えて
――ああ、あの時だったんだ――
と思うかも知れない。
今回はジワジワというよりも、一気に来たような気がする。前日まではそれほどのこともなかったのに、朝起きて気分が優れなかった。原因がどこにあるかなど見当もつかず、
――きっと、仕事の疲れからだろう――
と思っていた。しかし、そのわりには目が覚めてくるにしたがっても、意識がハッキリしてこない。まるで起きるのを嫌がっているかのようである。そんな時は嫌な予感がする。胸騒ぎと言ってもいいくらいだ。
――まさか――
脳裏をよぎる。そのまさかなのだ。しかしそれに気付くのもかなり後になってからで、その時は鬱状態という意識はないのだ。
夢の続きを見ているような感じで、今までの鬱状態への入り口とは、少し違うのではないかと後になってから感じたりもした。それゆえに、その時に気づかないのだろう。
――一体何が私を鬱状態へと誘うのだろう?
その時夢を見ていたような気がする。目が覚めるにしたがって覚めていくものだが、夢を思い出そうとしたときはすでにまったく覚えていない。
夢とはそんなものだ。
目が覚めるにしたがって記憶の奥に封印されるのか、気がついたら覚えていない。
――気がついたら死んでいた――
というブラックジョークがあるが、それを思い出したくらいだ。
夢とは目が覚める寸前に、少しだけ見るものらしい。目が覚めるにしたがって忘れて行くのも仕方のないことだ。夢とはやはり「夢の世界」の中だけのことなのだろう。「夢の世界」というものが確実に存在するとすれば、説明はつく。
「夢の世界」が存在するかどうか、私には分からない。しかし、現実と鬱状態の世界が存在しているような気がするのは気のせいではないだろう。
鬱状態の入った時の私は、明らかに違っている。まったく笑わない自分が、いつもの自分からは信じられないのだ。いつもの自分はいつもニコニコしている。理由もなくニコニコしていることもあるくらいだ。
今までに何度か陥ったことのある鬱状態であるが、今回は普段の鬱状態とは少し違っている。
作品名:短編集73(過去作品) 作家名:森本晃次