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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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涼子の探し物(1)

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白い壁、白い天井、真っ白なシーツ。白が支配する空間を最後に見ているなんて嫌で、最期の力を振り絞ってなんとか首を捩じる。体中が苦しさに呻いている。僕は自分の体にもう何もかもが欠落していくのを感じて、呼吸が止まろうとしているのを知った。


僕は三か月間の闘病生活の末、今にも死のうとしている。苦しみはなかなか終わらず、僕は何度か意識を取り戻しながらも、だんだんと弱り切って力の抜けていく、重い、重い体を、病院のベッドに沈めていた。


怖くて堪らない。この後はどうなるんだろう?神様の前に連れて行かれて、今までした悪い事を怒られるのかな?それとも、良い事をしたからと天国へやってもらえるのかな?ああ、苦しくて堪らない。そんなことどうだっていいや。



だって僕は生きていたい。まだ生きていたい。生きていたいんだ!母さんがここに居るんだもの!



僕が首を捩じった視界には、青い空にいつものように白い雲が千切れながら流れていくのが見えたけど、それは四角く切り取られていて全部は見えなかった。でも空が見えた。そっか、まだあるんだ。



そして、空と僕の間に、泣いている母さんが居た。綺麗で、優しくて、僕の自慢の母さん。今も、死んでいく僕が恐ろしい思いをしている事に胸を痛め、僕と離れてしまう事に悲しんで、涙を流している。


良かった、まだ母さんが見える。今のうちに言わなくちゃ。

「母さん…」

僕の口はカラカラに乾いていて、息を吐いて喉を動かすのがこんなに大変だとは思わなかった。終わりが早まって、体全体が悲鳴を上げているのが聴こえる。

「なあに?良一…」

母さんは僕を怖がらせまいと、泣きながら笑ってくれる。


不意に、僕の心臓が最期の脈を打てなくなる合図のように大きく揺れ、僕は急に息苦しくなって、悶え苦しんだ。どうしよう、もう目が見えなくなってきちゃった。

「良一!」



母さんが僕に縋りついて大声を上げるのが聴こえる。母さんが握っていた僕の手に、ぽたぽたと母さんの涙が垂れるのをまだ感じる。でも、意識がもうろうとしてきた。



怖いよ。助けて母さん!




僕はもう一度目を開けようとしたけど、もう瞼は動かなかった。だからせめて、声だけでも出そうとして、必死に息を継ぐ。大丈夫だ。まだ出来る。そう思ったのに、僕は急に頭がぼんやりして、ふっと目の前は真っ暗になった。



意識だけが遊離しながら切り裂かれているような感覚だった。



ああ、帰りたいなあ。うちに帰りたいよ。母さんのごはんが食べたいよ。もう一度でいい、母さんのごはんが食べたいな…。



メーターが0を指し示した機械音と、母さんの泣き叫ぶ声。僕が最期に聴いたのはその二つだった。






でも次の瞬間、僕は驚いた。

「あれ?ここ…」


僕は自分の家に居た。目覚めた自分の意識に気付いて開いた僕の両目には、母さんと住んでいて、僕が途中からはもう帰れなくなっていた、自宅のキッチンが映った。僕の家はちょっと狭い方で、リビングに立てばキッチンが見えた。ちょうどその景色だ。


今まで感じていた体の苦しさは消え失せ、元の通りに自分が元気な体を取り戻しているのを、楽に持ち上げられる両手や片足に感じた。どういうことだ?


「……夢…?」

まさか、今までの三か月間はただの夢で、僕は急に自宅で目を覚ましたんだろうか?立ったまま?もしかして、一瞬の白昼夢が僕に訪れたんだろうか?



じゃあ、母さんが家に居るかもしれない!寝室かもしれない!



僕は胸いっぱいに喜びを吸い込んで、泣き声を上げた。



「母さん!」


寝室へ駆けていく。きっと母さんは寝室に居る!それか、居なければ僕の部屋かもしれない!掃除をして、「もっと片付けてね」と、いつもみたいに言い聞かせてくれるかもしれない!そうだ!きっとそうだ!

僕は寝室のドアの前で、ドアノブに手を掛けた。…はずだった。

「あ、あれっ?」

僕の手は空を切った。目測を誤ったかな?と思って、手元を見て、もう一度ドアノブに手を掛けようとした時、僕は自分の目を疑った。




僕の手は、ドアノブに触れられずに、そのままドアノブの中へ吸い込まれていったのだ。




「嘘だろ…」

恐ろしくて堪らなかったけど、ドアに手をつこうとして、ドアに向かって手を伸ばすと、僕の手は向こう側へとすり抜けていく。そんなはずはない。そんなはずないのに!

「…母さん!母さん!居たら返事して!返事して!母さん!頼むよ!僕だよ!母さん!」



僕は両目から涙がこぼれ落ちているのを確かに感じている。胸が苦しくて、悲しくて、さびしいのが分かるのに。それなのに。



ドアの向こうからは何も返事は無い。でも、不意に中から「カチャリ」という小さな音がして、ドアノブが回り、ドアが開いた。


「母さん!…わっ!」



そこに居たのは全く見知らぬ他人で、部屋から出ようとするので僕は慌てて脇に避けた。

その人は洗面所へ向かって僕の傍を通り過ぎ、自分より少し背の低い僕の事なんか見えていないような顔をして、何も言わずに歩いて行った。その姿に、僕は怒りが湧いてきた。



ここは僕と母さんの家だったはずだ。僕はこんな状態になっても、この家に居るんだ。それなのに。




洗面所からは蛇口を捻る音がして、水音が流れてきた。



「誰だよお前!僕んちで何してんだ!答えろ!」



もちろん答えは無い。そうだ、もう知ってる。僕は幽霊だ。多分、そうだ。それから、ここに母さんは居ない。




でも、そんなはずない。僕が死んだのはついさっきなのに、なんでもううちに別の人が居るんだ…?




僕はドアが開いたままの寝室に駆け込んだ。でも、そこは母さんの寝室じゃなくなっていた。

壁には男の人のポスターが貼られているし、ベッドもカーテンも、室内の灯りの色まで母さんの寝室とは違っていて、おまけにごちゃごちゃと汚かった。

床に脱ぎ捨てられたままになっている服は女性物だ。そういえばさっきすれ違った時は特に気にしなかったけど、女の人だった!



急に僕は悪いことをしている気分になって、部屋から出て、自分がさっき居たリビングへと向かう。何か母さんに繋がる物を探して。








何も無かった。そりゃそうだ。今はあの女の人が住んでいるんだ。

母さんの持っていた鍋やフライパン、お気に入りの食器なんかを探そうとして、キッチンの棚の扉を開けられなかったから、中に首を突っ込み、すり抜けて覗いていた。


すり抜けられるのを面白いとも思わなかったわけじゃないけど、自分でも気味が悪いし、五、六回やったらもう慣れて、母さんに繋がる物が無いことが悲しい気持ちの方が勝っていった。




僕はキッチンの片隅に蹲って泣いていた。幽霊だって泣くさ。誰に見られる心配も無いから、思いっ切り泣いた。そんなに声は出なかったけど。



母さんが居ない。きっと、もうどこかに引っ越しちゃったんだ。僕は死んだ後にすぐ家で目覚めたと感じていたけど、もしかしたら、幾日か経っているのかもしれない。それでも、こんなにすぐに母さんが僕達のマンションから引っ越しちゃうなんて。


作品名:涼子の探し物(1) 作家名:桐生甘太郎