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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Husky

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 背筋を伸ばして、笑顔で左手を差し出し、間接照明で照らされた受付に案内する。それが私のバイト。家から電車で三十分くらいの場所にある美術館。全ての設備、光、間隔がくまなくデザインされていて、そこには必ず、理由と思想がある。大学生のバイトにしては気の張る仕事だと、お父さんに言われた。でも、居酒屋よりは環境が整っていて、変な人間の相手もせずに済む。絵が好きで、高校時代まで美術部にいた私としては、結構気に入っていた。でも、それももう終わり。美術館は、今年の春に休館になった。夏前に再開したけど、結局閉館することになって、今日は最終日。少しレトロな印象のすみ丸ゴシック体で『樫井 優美』と書かれた名札は、記念にもらってきた。仲間の内数人は、これから友達として付き合いが続いていく。二つ折りになったテイラーバッグには、就職活動には使えないグレーのパンツスーツ。フラワーホールには、美術館のロゴを刺していた跡がはっきり残っている。金属製で重くて、最初は嫌だった。バイト中も、スーツの形が崩れてきているのではないかと気になって、時折ロゴに触れるのが癖になっていた。一年足らずでも、癖というのはあっという間に出来上がる。例えば、通っている大学。キャンパス自体が開いていなくて、オンライン講義が主体だ。まだ数か月だけど、講義と聞いてまず思い浮かぶのは、自分の部屋のパソコンの電源を入れるということ。友達と話すときも、顔を見たいときはパソコンの電源を入れる。部屋の壁にかかったポスターは全部どけて、真っ白に戻した。初めてビデオ通話機能を使ったとき、カメラに近づきすぎて胸元しか映っていない牧多香織が言った。『樫っち、入院してるの?』
 病院に見えるぐらいに殺風景な『見せ壁』は、今でも白いままだ。意外だったり、変な印象を与えたり、余計な情報は伝えたくない。
 生まれてからずっと住んでいるマンションのエレベーターホールは、去年リフォームされてホテルのエントランスみたいになった。六〇七号室に住んでいる樫井一家は、父と母と私の三人。お父さんは水道工事の仕事をしていて、管理者になってからは現場に出ることはなくなった。子供の頃は、夜中まで帰ってこないのが普通だった。お母さんは区役所の窓口でパートをしている。その日の夜に包丁を振るう時の音で、どんな人を相手にしたのか分かるようになった。
 エレベーターに乗り込んだ時に足音がして、私は開ボタンを押してドアが動くのを止めた。慌てて入ってきたのは、隣の六〇六号室に住む、本堂一家のお母さん。
「優美ちゃん、ありがと」
 家族構成は瓜二つ。本堂家のお父さんは電気工事技師で、現場から退いているところまで同じ。お母さんは図書館の司書。ひとり娘は亜里沙で、同い年の幼馴染。明るくて、誰とも物怖じせずに話せる気さくな性格は、引っ込み思案だった私からすると、憧れの的。子供の頃は、亜里沙を通じてできた友達の方が多いぐらいだった。そんな亜里沙とは、小学校、中学校と一緒だったけど、高校でばらばらになった。共通点は、二人とも美術部で、今でも絵を描き続けているということ。
 六階で降りて、六〇六号室の前で立ち止まった本堂さんに頭を下げると、私は六〇七号室の鍵を開けた。両手に買い物袋を持つ本堂さんが鍵を開けにくそうにしていることに気づいて、私はひとつを持って鍵を開けるのを手伝った。本堂さんは笑顔で、子供の頃の私を透視するみたいに、私の胸のあたりを見ながら言った。
「ありがと。優美ちゃん、それはスーツ?」
「そうです。美術館が閉まっちゃって。今日が最終日でした」
「あら、大変ね。亜里沙もバイト探してるわ」
 玄関には、綺麗に揃えらえれた靴。逆さまになって干されているものもあったけど、亜里沙のパンプスは最近一緒に買いに行ったばかりのよそ行きだ。昔からスニーカーが好きだったのに、好みは変わるものだ。別れの会釈を交わすと、私は六〇七号室のドアを開けた。ハンガーにテイラーバッグをひっかけて、靴を脱ぐと綺麗に並べた。お父さんのサンダルは存在感がすごい。脱いだときにどんな姿勢だったか分かってしまうぐらいに。
 樫井家に比べて、本堂家は全体的に統率が取れている。全てに意味があって、何かの理由があるような雰囲気が、人からも家具からも出ている。もう昔の話だけど、亜里沙の部屋に遊びに行ったとき。部屋には封が切られたばかりのテレビが置かれていて、コードのようなものを担いだお父さんが行ったり来たりしているのを見た私は、亜里沙に尋ねた。
『お父さん、何をしてるの?』
『これから配線するんだって』
 本堂家のお父さんは、テレビでも電話でも、自分で設定できる。対して、うちのお父さんは機械音痴だ。水の流れ方に文句をつけることはあるけど、機械の設定はできない。ちょうどその頃、テレビが突然つかなくなったことで、見たい番組を見逃したばかりだったから、機械を自分で直せる父親を羨ましく思ったのを、少しずつ積もりつつある罪悪感と一緒に、今でも覚えている。
 洗面所で手を洗っていると、洗濯物を取り込んで部屋に戻ってきたお母さんが言った。
「おかえり。お疲れさまでした」
「ただいま。また探さなきゃ」
 私が言うと、お母さんは仕事中のように、わざとらしく姿勢を正した。
「私と同じ窓口で働く?」
「やだよ。裸の人が来たって言ってたじゃない」
「一瞬だけよ。すぐ着てたわ」
 お母さんは笑いながら、ふかふかになったハンドタオルをくれた。手を拭きながら、私も笑った。
「そういう問題じゃないって」
 続けてうがいをしながら思うこと。本堂さんが勤める図書館に、そういう人が来ることはあるのだろうか。お母さんは、玄関にひっかけたテイラーバッグを見て、笑顔になった。
「マナーとか、立ち振る舞いは癖になるからね。これから就職活動で役に立つわよ」
「うん。忘れないようにする」
 居間には、高校二年生の時に県のコンクールで入選した私の絵。最初は恥ずかしくて、大学に入る頃にはどうでもよくなって、最近やっと、誇らしく思えるようになった。数年前の水害の時に、お父さんが災害復旧で久々に『現場』に出たときの感謝状が隣にあって、テーブルにはお母さんが町内のテニス大会で準決勝まで勝ち抜いたときの、記念写真が飾られている。お父さんはそれ以外にも飾れそうなものがありそうだったけど、ひとつずつ『功績』がある今の状態が好きだと言って、数年そのままだ。
 小中高と絵を描いてきた私。気づいたら、隣に住んでいながら、学校以外では、亜里沙と絵の話をすることはなくなっていた。特に別々の高校に進学してからは、美術部を見学したけど期待外れだったというところまでしか知らなくて、付き合いが復活したのは、例のコンクールの結果発表があったときだった。だから、高校時代の前半の思い出は、ぽっかり虫食いのように空いている。でも、家族ぐるみの付き合いは絶え間なく続いている。お父さんは、本堂家のお父さんと仲が良くて、よく駐車場で車の話をしているし、お母さんは、本堂家のお母さんとたまに喫茶店でコーヒーを飲んでいる。私も、亜里沙と買い物に行くし、バイト先の美術館に来てもらったこともある。
 時計を見上げながら、私は言った。
作品名:Husky 作家名:オオサカタロウ