黄昏クラブ
3
まあ、その日、帰宅しても思った通りだった。
まず、戸を開けた時。
うわっ! 男臭っ――!
そこいらじゅう散らかり放題で、夕飯の支度どころではなかった。
せめてご飯だけでも炊いといてくれれば助かるんだけど、それは無理な話だった。サルにフレンチのフルコースを準備させる方がずっと楽なように思えた。
翌日の放課後。
文化系の部活は水曜だけ出ればいいことになってはいるが。それでも出席する部員など滅多にいない。写真部や吹奏楽部など明確な趣味や目標があるならまだしも、文芸部のような過疎部に毎日出ている者など私くらいのものだろう。ましてや今日は火曜日。顔を出すような殊勝な部員を期待する方がどうかしている。
だが、裏を返せば、そうであるからこそ、誰にも邪魔されない自分だけの時間を満喫できるということでもあった。
中間テストが終わったばかりだというのに不意打ちの小テストがあったりして、すっかり気が滅入ってしまっていた。こんな時にこそ勉強すればいいものを、ここぞとばかりに気晴らしに本を読んでしまうのは悪い癖だと自分でも思う。
そして、恒例の下校の見回りの時間。
今日は苦手な世界史の井上先生だった。
先生は私を見下すように「何時だと思ってる。さっさと帰れ」と言い放ったかと思えば、返事も待たずに姿を消した。
見回りは一回だけとは分かっているが、私は重い腰を上げた。
戸締りをして、廊下へ出る。
そうだ、昨日の子はいるだろうか――
私は右隣の扉に手をかけた。だが、鍵がかかっているようで開かなかった。
夕暮れの陽が曇りガラスをぼんやりと光らせている。目を凝らしてみても、部屋の中の様子は窺えなかった。
先に帰ったのか、それとも今日は『お留守番』はお休みなのか、彼女はいないようだった。
まあ、することもないのにそうそう毎日いる方がおかしいのだ。私は人足の絶えた薄暗い廊下を一人、出口へと向かったのだった。
あくる日、午前の授業が終わったところで親友の神崎美奈が声をかけてきた。
「彩夏。お昼、一緒に食べよう」
彼女は吹奏楽部の練習で昼休みさえゆっくりできないことが多い。
「珍しいね。今日は練習ないの?」
ちょうど私と向かい合っていたバレー部の須川(すがわ)小夜里(こより)が顔を上げる。小夜里は私のすぐ前の席だ。出席番号順でも私のすぐ後ろで、前後が入れ替わっただけようなものだが、彼女こそもう一人の親友だった。
「あることは、あるけど」
言いながら美奈は隣の列の空いている椅子を引き寄せて座った。「サボるの」
三人分の昼食を広げるには窮屈なため、小夜里が自分の机もくっつけてきた。
「いいの? 怒られない?」
「誰が怒るのよ。べつに大会に出るわけでもないのに。受験勉強より大事なものなんてないわ」
私が訊くのに、美奈は澄まして答えた。
「大体、県大会の野球部の応援なんて、一、二年生だけで十分じゃない?」
「まあ、そうね」
と、小夜里。
「でも、三年は部活は夏休みまでじゃないの。その後はもう、楽器できないんだよ? もったいない気もするけど」
「そうねえ。彩夏の言う通りなんだけどね。大学行ったら別のサークルに入ってみたい気もするし」
チョコ・コルネを齧りながら美奈は言った。
私は弁当に入っているミートボールを上手く箸で挟めずに突き刺す。
「それで、彩夏と小夜里はどうするの?」
「大学のバレー部って、どんなのか想像つかないな。インターハイとかもなさそうだし」
と、小夜里が左顎の少し上をつねる。それは彼女の考え事をするときの癖なのだ。もっとも本人は気づいていないようだが。
「彩夏は?」
二人に同時に訊かれて、私は戸惑った。
「そ……、そうね。やっぱり、私もよく分からない。大学のサークルって、なんだか常に議論戦わしてるみたいな印象もあるし、少なくともウチよりは活発そうだし」
「だよねー」
美奈が得たりとばかりの口調で言った。「特に文系なんて現役のオタクの巣窟みたいな感じでさ」
「いや……、そんなんじゃなくって」
「じゃ、彩夏はどんなイメージ持ってるの?」
「文芸部っていっても、有名な作家の文学碑巡りしたりとか、文集出したりとか」
「あ、やっぱ彩夏は文芸なんだ」
「私、あんまり大勢でぞろぞろってのは苦手だし。それなら一人で本読んでる方がいいかなって」
美奈に、私は答える。
「マイペースの彩夏らしいね」
「そういうの、マイペースって言うの?」
「じゃあ、わがまま」
「ひっどぉーい!」
私は小夜里を殴るふりをして見せた。
六限目。水曜の授業は五限までしかない。その代わり、六限目がクラブ活動に充てられている。文化系クラブも週に一度、水曜の六限目に出席しなければならないことになっている。だが、運動部以外では点呼を取ることも滅多にないために参加しない者も多い。中には水曜は五限までしかないと思い込んでいる生徒もいるほどだ。
「わがままか……」
そんな文化系クラブの部室が並んだ廊下を歩きながら、私は呟いた。
マイペースとわがままの境い目は、どこにあるんだろう――
人に迷惑をかけてでも我を通すのがわがままだとしても、マイペースと同義ではない。人に迷惑をかけるつもりでなくともマイペースであることは可能なのだろうか。人を傷つけるつもりなど毛頭なくて、それでもマイペースって……
え……?
それって、天然ってこと――?
「う……ん」
私は廊下に立ち止まって一人唸った。
わがままでマイペースで天然。
最悪だ……。
って言うか、私のどこが天然なんだろう?
確かに、多少はぼんやりしているところはあるとの自覚はある。でもそれは、わがままでも天然でもないと思う。
マイペースと言われれば、まあそうなのかもしれない。それも少しだけ。
「まあ、どうでもいいや」
私は部室の戸を開けた。
「あれ?」
鍵がかかっていない時点で気づくべきだったのだ。室内には思いがけず副部長の稲枝(いなえ)和馬(かずま)がいて、私は立ちすくんでしまった。
「稲枝」
「お久しぶり、ヌシ」
彼は私と同じ三年生だ。他の部員同様、滅多に部活に顔を出さない。この二年余りの間で、部活で顔を合わせたのは両手の指で足りるくらいだろう。
「どうして、ここに?」
「たまにはヌシの顔を立てないと」
「それだけ?」
「俺がいて悪いこともないだろ?」
私は扉を閉めていつもの自分の席に座った。
「なんか、やらかしたとか」
「人聞きの悪いことを言うなよ。俺だって部員なんだぜ」
「まあ、それは、そうだけど。雪でも降りそう」
「そりゃ、ないだろう。隕石の一つや二つは落ちてきてもおかしくはないかもだけど」
「自分で言ってりゃ世話ないね」
でも、なんか怪しい。用もないのに稲枝が部室に来るはずがない。
私は彼をねめまわした。
「あ!」
「お、おい! どうしたんだ?」
「稲枝、補講サボりに来たんでしょ!?」
「ご明察だよ」
やれやれとでも言うような稲枝の微笑。「だってそうだろ? まさかこの俺が律義に部活に出てるなんて誰も思わないじゃん」
「それって、自慢げに言うこと?」
「どんなふうに言ったって同じ」
「そこまで開き直れるとは……」