黄昏クラブ
26
「てん、てん、てんまり、てん手鞠――♪」
彼女が口ずさむ。夕陽の差し込む部屋の中、甘い歌声が憂いを誘う。
私は俯いたまま目を閉じて、その歌に聞き入っていた。
「――表の通りへ、飛んでった、飛んでった……♪」
その続きはなかった。
二人だけの部屋に、息遣いさえも飴色の空気に溶けて流されてしまったような静寂が訪れた。
私は、そっと目を開けた。
机を挟んだ向かいに、吉井のどかがいる。彼女は私のことなど知らぬとでもいうように、外を見ているようだった。
「吉井……さん……?」
「ああ」
彼女が私を向く。
「あなたは、文芸部員だったのよね?」
不思議なものを見るように、彼女が私を見る。「そうよ。それがどうかしたの?」
「どうかしたって? どうして今まで黙ってたの?」
「言う必要もないからよ」
「必要ない、か……」
私は寂しい気持ちになった。
「どうして、そんな哀しい顔をするの?」
彼女が訊く。
「だって、あなたはあまりにも秘密主義すぎる。私たち、友達になれると思ってたのに」
「あなたは、何もかも知らないと友達になれないと思っているの?」
「そんなこと、思ってないけど」
「ねえ。どうして私が文芸部員だって分かったの?」
「え……。だって、さっき、あなたが――」
「私が? 私が言ったの?」
彼女が怪訝な顔をする。
「……」
彼女が嘘を言っているようにも、はたまたとぼけているようにも、私には見えなかった。だから、私は言ってみた。
「鞠は、どこ?」
「鞠?」
彼女はさらに不審げに私を見る。
「ほら、さっき鞠つきしたでしょ?」
「……」
「したわよ……ね?」
彼女は、静かに首を振って言った。「あなた、きっと夢を見たんだわ」
「夢?」
「ついさっきまで、あなたは居眠りしていたのよ。あんまり気持ちよさそうだったから、起こさないでいたけれど」
「でも、あなたが文芸部員――しかも部長だってのは、事実なのよね?」
「そうね」
「私、居眠りなんかしてない」
「そう……」
それっきり、彼女は黙ってしまった。
これまで経験した中で最も重苦しい沈黙が流れる。
「ねえ」
いつまで経っても彼女が何も言わないため、私から声をかける。「ここに、鞠はある?」
「鞠?」
「そう。ゴム鞠じゃなくて、刺繍っていうのかな、昔のやつみたいなの」
「ああ」
彼女はスチール棚の方を見やる。その棚の上に段ボール箱が幾つか置いてある。
「箱の中?」
私は訊く。
彼女は頷いた。
手近な椅子を寄せて、私はその上に上がる。「これ?」
幾つかある段ボール箱の一つを指す。
「どれなのかは忘れたわ」
「やっぱり、あなたはあの鞠で遊んだことがあるのね?」
棚の上に手を伸ばしながら、私は言う。
「ええ。もうずっと前のことだけれど」
その言葉を背に、段ボール箱を引っ張り出す。もう何年も放置されていたのか、埃が舞う。
机の上に置き、開けてみる。中身は文芸部にもあるような冊子がぎっしりと詰まっていた。紙以外入っていないのは一目瞭然だった。
もう一度椅子に乗り、今度は三箱ほどまとめて下ろす。
一つずつ開けてみたが、どれにも鞠は入っていなかった。棚の上の箱は、あと一つだけだ。私は最後の一箱を下ろして開けた。
ため息が出る。
どの箱にも、鞠は入ってはいなかった。
「ねえ。どうしてそんなに鞠を探す必要があるの?」
彼女が訊く。
「私、何となくだけど分かった気がするの」
「何が分かったの?」
「うん」
私は手についた埃を払いながら言う。「私、あなたと私を結びつけたのは、あの女の子だと思った。でも違うの」
「違うって?」
「女の子は、たぶんただの幻。実体は鞠の方なのよ」
「どういうこと?」
話の流れが読めない彼女が、私に問う。
「あなたは、手鞠唄を聞いてここに来ることになった。その時に会った女の子の正体を突き止めるために、お留守番をするようになった。そうでしょ?」
「え、ええ……」
「あなたはここで、鞠を見つけて、それで一人で鞠つきをしてたのね?」
「そ、そうだけど。それが、何か?」
「あなたが鞠を見つけたのは、ここに来てすぐでしょう?」
「ええ」
「それで、あなたが鞠つき遊びをすることによって、もう女の子の幻影は必要なくなったのよ」
「ごめんなさい。あまりよく分からない」
「つまりね。あなたは女の子が鞠つき遊びをして欲しくて現れたと思ってるんでしょう? でも実際は逆で、鞠自身が遊んで欲しくて幻を見せたんじゃいかって思うのよ」
「あなたが言いたいのは、こういうこと? 私が鞠を見つけてそれで遊んだから、鞠は満足して変な幻を見せる必要がなくなったって?」
「そう。それしか考えられないじゃない?」
そう言って、私は室内を見回す。「でも、鞠はどこにあるの?」
「知らないわ。あなたの言うように、私は鞠で遊んだことはある。でも、どこへやったかは忘れたわ」
私は、埃だらけになった制服をはたいて椅子に座った。
「それって、どれくらい前のこと?」
私は訊ねる。
「忘れたわ。もうずっと前のことだもの」
「とにかく、鞠を探さないとね」
「よく分からないけど、あなたはそれが重要だと思ってるのね」
私は頷く。
チャイムの音が鳴り響く。最終下校時間を促す合図だ。
「ねえ、吉井さんは文芸部員でしょ?」
「のどかでいいわよ。そう、その通りよ。私は文芸部員よ」
「なのに、何故ずっとここに詰めてるの?」
「文芸部では、やることはないから」
「ここにいたって、やることないじゃない?」
「だから、お留守番って言ってるじゃない」
ああ、また堂々巡りになってしまう――
私は話題を変える必要性を感じた。
「あなた、鞠がありそうなところとか、知らない?」
彼女は首を振る。
とにもかくにも鞠を見つけるのが先決だと思う。その後のことまでは分からないが、鞠こそが問題解決のキーアイテムであることを、私は疑っていなかった。
だが、鞠はどこにあるのか。
――!
文芸部室だ――!
古典部室にないのなら、残るは文芸部室しかない。
「行こう。もうお留守番は終わりよ」
私は彼女の手を取った。
「行くって、どこへ? 私は――」
「いいから!」
強引に扉の方へ引っ張る。
もう少しで扉に手がかかるというところで、彼女は思いっきり手を振りほどいた。「今、出たらダメ!」
「どうして、ダメなのよ!」
振り向きざまに、私は言う。
「どうしても!」
低い声ではあるが、その語気には力があった。それからすぐに、いつもの口調に戻って、彼女は言った。「行くなら、あなたひとりで行って」
「のどか……さん……」
「いいわ」
彼女は私に目線を合わさないままに言う。「あなたの言うように、きっと私のお留守番はそれで終わるでしょう。でも、それを確かめるのは、あなただけでやって。それで充分よ」
扉の前で突っ立ったままの私の手を、今度は彼女が引く。
無理やりにさっきまでいた椅子に座らされ、彼女はというと机を回っていつもの席に腰を下ろす。
「もし」
ややあって、彼女が切り出す。「もし、あなたの言っていることが正しかったとしたら――」
彼女はそこで、言葉を切る。