黄昏クラブ
24
黒味彩也香が帰った後、すぐに私は古典部へ赴いた。
音を立てて扉が開く。
吉井のどかが私を見る。私は彼女の前の席に腰を下ろした。
「昨日は、いなかったわね」
「そう?」
「だって、いなかったでしょう?」
「私は、いたつもりだったけど」
「いなかったわよ。鍵がかかってたもん」
「そう……」
「ねえ、あなたは私とお話したいって言ったわよね」
「ええ、言ったわ」
「あなたは、いつもここにいるのよね」
「ええ、そうよ」
「だったら、どうして――」
「ごめんなさいね、それは私にもどうにもできないことだから」
「……」
「ねえ、いつもおごってもらってばっかりだから、今日は私が出すわ。何か飲み物を買ってきてくれない?」
「それは、べつにいいけど。あなたが行けば――」
言いかけてやめる。彼女はここから出ることはないのだ。私は小銭を受け取って、古典部室を後にする。
自販機コーナーで私の好きなミルクティを二本買って戻る。
「ごめんなさいね。お使いに出させて」
「ううん、おごってもらったんだし。私の好みで買って来たけど、これで良かったのかな」
「あなたは、ミルクティが好きなのね」
「まあ、紅茶は好きよ。気分でレモンティかミルクティになるけど」
「ミルクたっぷりって、美味しいわよね」
「うん」
ふたり同時にプルトップを開ける。
「こんな美味しいミルクティがあるなんて」
彼女が一口飲んで言う。
「ホットが最高なのよ」
私の言葉に彼女が微笑む。「ああ、私はあなたに会えて幸せだな……」
彼女が目を閉じて上を向くのと反対に、私はうつ向く。
私に、会えて幸せ、か……
とん、とん、とん――
いつかも聞いた音。
私はただうつ向いたまま、その音を聞く。
とん、とん、とん――
――どこからどこかで飛んでった
垣根を超えて屋根越えて
表の通りへ――
私は顔を上げる。すぐ前に座っていたはずの吉井のどかはいない。
オレンジ色に照らされた室内に私だけがいる。
いや、今しがた聞こえていた手鞠唄は――?
とん、とん、とん……
手鞠が私の足元に転がる。
私は顔を上げた。
部屋の真ん中に、驚いた表情の吉井のどかがいる。つい今しがたまで真向かいに座っていたはずなのに、いつの間に移動したのだろう。
「あなたは……」
彼女が口を開く。「誰?」
「え?」
彼女は突っ立ったまま、警戒するように私を見ている。
「あなたは、吉井、のどかさんよね?」
「どうして、私の名前を知ってるの?」
彼女はますます警戒の視線を私に向ける。
「ねえ」
私は言う。「私を知らないの?」
「知らないわよ。――それより、いつの間に部室に入ったの?」
「いつの間にって……」
「あなた、誰よ」
「早乙女彩夏。知らない?」
「知らないわ。どうしてあなたがここにいるのかも」
私はため息をつく。
「私も、どうしてここにいるのか分からない」
「鞠、返してよ」
私は足元の鞠を拾い上げる。それはゴムまりなどではなく、芸術作品といってもいいような鞠だった。彼女の視線が刺さるようで目を合わせることも敵わず、鞠を投げ返す。
「ありがとう」
彼女は鞠を受け止めて言う。「まあ、ちょうど暇だったの。少し付き合ってくれる?」
「付き合うって?」
「鞠つき。あなたも、やったことはあるでしょう?」
「幼稚園の頃にやっただけかも。小一くらいでもやったかな」
私は言う。
「じゃあ、これは知ってるかしら」
彼女が鞠をつき始める。
「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ――」
「うん、知ってる」
「さあ、立って」
言われるままに、私は席を立つ。
「私からでいい?」
「まず、一通りやって見せてよ。忘れちゃってるかも知れないから」
実際、いきなり鞠つきをやろうと言われても、おぼろ気にしかその記憶はない。
「そう。じゃ、やって見せるわね」
とん、とん、と、ゴムまりではない硬い音が木の床に響く。
「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ
熊本どこさ、せんばさ
せんば山には狸がおってさ――♪」
彼女は鞠を足にくぐらせ、反対の手で受けたりするのを全くリズムを崩さないまま最後までやってのけた。
「思い出したわ。途中で相手にパスするのね」
「そうよ」
「できるかなあ……」
「一度、やってみましょう」
まず、彼女から始める。
数回ついて足の下をくぐらせ、さらに数回。そして私の方に回してきた。相手に鞠を回すそのタイミングで勝負していたような記憶がある。運動神経の鈍い私は数回ついただけで彼女に返した。
彼女は今度は二回足の下をくぐらせて私に回す。唄はエンドレスで続けられ、彼女と私の間で幾度も鞠が交換される。そのうちに私も慣れてきて、一回だけなら足下をくぐらせることができるようになった。
そんな私を見て、彼女がニヤリと笑う。これまでに見たこともないような挑戦的な表情だった。
唄が終わったと思ったら、彼女はそのテンポを上げた。私はついて行くのが精いっぱいで、他のことを考える余裕など全くなくなってしまった。
三周ほどした後で、ようやく彼女は鞠を両手に持った。私は結構息が上がっていたが、彼女はいとも涼しげな顔をしている。ただの鞠つきがこんなにもハードだったなんて、想いもしなかった。
「どうだった?」
彼女が訊く。
「どうって……。疲れたあ!」
「仕方ないわね」
彼女が額に浮き出た汗を拭って小さく笑う。「私も喉が渇いたわ。何か買ってくるけど、コーヒーでいいかしら?」
「え、ええ――」
「どうしたの? おかしな顔をして」
「あなた、ここから出られないんじゃ……」
「誰がそんなことを言ったのよ。変なことを言うわね」
彼女は自分の鞄から財布を出して、部屋から出て行った。
ひとり取り残された私は椅子に腰を下ろして考える。
さっきまで鞠つきで遊んだ彼女は、確かに吉井のどかその人だ。年齢も髪型も声も、いつもの彼女のままだ。だが、その立ち居振る舞いが全く違う。見慣れた物憂げな表情など微塵もなく、むしろ普通過ぎるくらいだ。
室内を見回してみても、いつもの古典部室と変わりがないように見える。そう言えば、彼女は自分の鞄から財布を出したのではなかったか。ここで、彼女の私物を見るのは初めてのことだった。その鞄は、長机の上に無造作に置かれている。
学校指定の学生鞄に、見たことのないキャラクターのキーホルダーがついている。
私は、恐る恐るその鞄に手を伸ばそうとした。
その時、扉が開いて彼女が戻って来て、慌てて身を固くした。手は机の上に置かれていて、よほど勘が鋭いのでなければ、それに触れようとしていたなどとは覚られないはずなのに。
「アイスコーヒーでよかった?」
「え、ええ」
「はい、どうぞ。付き合ってくれたお礼よ」
「あ、ありがとう」
私は冷えた缶コーヒーを受け取った。
彼女は手近な椅子に腰を下ろし、プルトップを開けたと思いきや、金属片をゴミ箱に投げ捨て、一気に数口飲んだ。
「どうしたのよ。遠慮しなくていいのよ」
「うん……」
私も栓を開けようとするが、栓が引っ込まない。「あれえ?」
「何よあなた、開け方も知らないの?」