黄昏クラブ
23
翌日の代休も、やることもないのに私は登校し、いつもように部室に陣取っていた。昨日の夕方と同じく後片付けの騒々しさが伝え聞こえてくるだけで、文芸部室は普段通りの静けさに戻っていた。
あまりにも退屈でクラスの方を手伝いに行っている間にでも来たのか、もう昼にもなろうというのに稲枝が訪れる気配は全くなかった。空腹を覚えて校外学食で焼きそばを買って、部室に戻る。
だらしなく腰掛け、思いっきり焼きそばを掻き込んでいるところへ急に扉が開き、思わず噎せ返った。
「あ、ヌシ先輩」
入って来たのは、一年生の黒味(くろみ)彩也香だった。
「ああ、びっくりしたあ!」
ウーロン茶で口の中の焼きそばを流し込んで、私は言った。
「黒味、ノックくらいしなよ」
「すみません。何かお手伝いできることはないかと思って来たんですけど」
申し訳なさそうに、黒味彩也香は言う。
「まあ、いいけどね。見ての通りよ」
「もう、何も出来ることなさそうですね」
「昨日、十分くらいで終わっちゃったわ」
「そうだったんですか、済みません。昨日はクラスの方が忙しくて」
「構わないわ。でも、来てくれてありがとう。あ、そうそう――」
私はポケットをまさぐって、小銭を渡す。「黒味も何か買って来なよ」
「えー? いいんですかぁ?」
「打ち上げよ。二人しかいないけど」
「じゃあ――」
黒味彩也香が飲み物を買いに行っている間に素早く焼きそばを掻き込む。少し遅いなと思っていると、彼女はスナック菓子も買い込んで戻って来た。
「打ち上げだって言うから」
「気を遣わせちゃったみたいで、却って悪かったわね」
「いえ、いいんですよ」
たった二人の打ち上げが始まる。ついさっき、急いで焼きそばを食べてしまったことに少なからず罪悪感を抱きつつ。
「ねえ、黒味はどうして文芸部に入ったの?」
「そんなの、決まってるじゃないですかあ。一番活動してなさそうだったからですよ」
「やっぱ、それか!」
「嘘ですよ」
黒味彩也香が舌を出す。「私も、本が好きなんです。でも、感想とか求められるのは苦手で」
「ああ、まあね。黒味は、書く方はあんまりなんだね」
「ええ」
「でも、原稿読んだけど、なかなか良かったよ」
「ホントですか?」
「自分で得意だって思ってる人の書くものは、だいたい読むだけ無駄だったりするのよね。でも、下手だって思っている人は何度も読み返したりして、しっかり仕上げてくる」
「私、そんなに見直しとかもしてなかったですけど」
「決まりね」
私は膝を打つ。
「え?」
「時期部長は、黒味、あんたよ」
「え、えー!? 私、まだ一年なのに!」
「そんなの関係ないわ。学祭終わって最初に来た子を指名しようと決めてたのよ」
「ダメですよ! 私なんか!」
「部長権限で、部室を私物化することを許す」
「ここ、ネットはないですよね?」
「ないよ」
「うー」
彩也香が頬を両手で包み込んで揉むような仕草をする。「でも、そのパソコンでゲームやってもいいんですよね」
「ゲーム部にする気か?」
「ダメですかあ? だって、部長権限なんでしょう?」
「お金がかからないなら、許す」
「マジっすか!」
彩也香が声を上げる。「でも待って。私、乗せられてません?」
「気のせいよ。次期ヌシさん」
「うわ。ヌシって呼ばれるの嫌だあ。やっぱり騙された気がする」
彩也香のふくれっ面を見て、私は笑った。
「これから二年も部室を自由に使えるんだから、文句言うな」
「二年には候補いないんですか?」
「だって、来ないもん。あいつら正真正銘の帰宅部員を決め込んでるからね」
「そんな安易な……」
「大丈夫、黒味ならできる」
「仕方ないなあ」
彩也香が言う「家でゲームばっかやってたら怒られるし」
「それはやめろ」
「もう、私がヌシなんでしょ?」
「まあ、好きにやりな」
無理やりに押し付けただけでは可愛そうなので、来年の学園祭のことも話してやる。
彩也香は私の話を真面目に聞き、要所要所でも質問をしてきた。私の見立ては間違っていなかったということだ。
「分からないことがあれば、いつでも聞けばいいよ」
要点をまとめた用紙を渡し、私は言う。
「私でもできるのかな……」
「できるよ。私にもできたんだから」
こうして、強引な引継ぎを済ませた私は、もうやることが何もなくなってしまった。
「あ……」
そう言えば、大事なことを忘れていた。卒業までここを使わせてもらえるかどうかってこと。
ま、いいか――
彩也香がひとりでゲームに打ち興じていても、そんなに騒がしいことにはならないだろう。
時期部長が決まり、引継ぎも終わったことで私も安心した。これで、本当にやるべきことは何もなくなったのだから。後は、受験勉強くらいのものだ。
ああ、黒味に鍵を渡すのを忘れていた。
まあ、いいや――
私は古典部室に向かう。
「あれ?」
扉が閉まっている。
まさか、昨日で最後だったとか――?
いや、彼女はそんなことは言っていなかったはず。
では、今日はもう会えないのか?
再度扉を引いてみたが、やはり開かなかった。
どういうことなの――?
だが、扉が開かないことにはどうにもならない。
やむなく文芸部室に戻る。もう少し時間を置いてから訪れてみるしかないか――
読みかけの本を開いてみるが、なかなか集中できない。三十分おきくらいに私は試してみたが、古典部室の扉は開かないままだった。
やっぱり今日は、もう会えないのか――
明日は、体育館で盛大なライブ・イベントがある。最初と最後の点呼の時だけいれば、出番がない限り途中で抜け出しても何も言われないのだが、私自身がそのライブを楽しみにしている。
もう! あなたまで肝心な時にはいないんだから――!
|自棄《やけ》気味に机の脚を蹴る。
その日は彼女には会えないまま、私は帰途に就いた。
翌日、ライブの日。朝一で古典部室の扉を引いてみたが、開かないままだった。ライブには私自身の出番はないものの、友達のグループのプログラムの関係で、まとまった時間席を離れることができなかった。だからといって私が始終憂鬱だったわけではなく、自分でもびっくりするくらいに盛り上がった。
気がつけば終わり間近だったというのが、私の印象だった。馬鹿みたいに騒いで盛り上がって飛び跳ねて、すっかり汗だくになっていた。自分がこんなにも何かに熱狂できるなんて、初めて知った。
ラストの生徒会主催のフォークソングでは、大勢の生徒たちと共に舞台にまで上がって熱唱した。
この音痴な私が、なりふり構わず人前で大声で歌ったことなど、後にも先にもこの時だけだと思う。
「お母さん、今でも鼻歌すら歌わないもんね」
「私が歌ったら、ご飯がまずくなるかもよ」
「それは勘弁」
真紀理が笑う。「で、お母さんは何を熱唱したの?」
「うん。あれは本当に熱唱したわ。ケサラって歌よ。合唱曲にあるんじゃない?」
「調べてみる。お母さんが唯一熱唱した歌って、興味あるもん」
「私は、カラオケなんて誘われても行かなかったもん」
「それでも歌っちゃったんだ」
「いい歌よ」
私は言った。
「歌ってみてよ」
「機会があればね」
「今は?」
「嫌よ」