黄昏クラブ
22
その後、後片付けの時間になっても稲枝は部室に顔を出さなかった。
「もう。要らない時ばっかり来るんだから」
後片付けといっても積み上げた冊子を脇へ置いて、机や椅子を元の位置に直すだけだ。ひとりでも問題はないが、手伝ってくれる人がいるに越したことはない。
最後の椅子ひとつだけは戻さず、窓際に掛けて大きく伸びをする。
結局、学園祭の二日間で売れた冊子は四冊だけだった。残りは部員に配布し、余った分は保管となる。
誰か来るかと思って開け放してあった扉を閉める。
酷く体が重い。昨日のようにクラスに駆り出されることもなく、特に何をしたと言うわけでもないのに、知らず緊張していたのだろう。
脱力したように、ぼんやりとしていると、あちこちから片づけの物音やざわめきが聞こえてくる。準備には一か月以上もかかったのに、後始末は今日と明日の二日間しかない。明日は一応は代休扱いなのだが、よほど熱心な帰宅部員でもない限り、出てくるのが慣例だった。
運動というほどの運動もしていないのだが、喉の渇きを覚えて私は廊下へと出た。まだ大勢が活動しているのだから、しばらくは部室に籠っていても許されるだろう。
自販機コーナーでジュースを買う時、ふと昨日の吉井のどかのことを思い出した。謎めいた物言いはいつものことだが、昨日はとりわけ何かをほのめかしているようだった。私は彼女の分と二本のジュースを持って戻った。部室の方はもうすることもない。戸締りさえしておけば、後は帰るだけでいい。
閉める前に部屋の中を見回す。
「馬鹿ね……」
引継ぎが終わるまでは、私は部長のままなのだ。ここに入るのも、最後というわけではない。だが、学園祭というイベントをどうにかやり遂げたのだから、少しばかり感傷の静かな波に心をたゆたわせるもの悪くはないだろう。
ゆっくりと扉を閉める。そっと閉めても古い引戸は大きな音を立てた。どこかで笑い声が聞こえる。騒がしいのが嫌いな私でも、ふっと寂しさを覚えた。
鍵をかけ、隣の古典部室へと体をずらす。
ひときわ大きな笑い声が聞こえてきて、私はそれから逃れるように古典部室に入った。
「どうしたの? 冴えない顔をして」
吉井のどかが訊く。
「べつに……」
私は歩み寄って、黙って缶ジュースを机の上に置く。
「あら、いつもありがとう」
彼女の前の席に腰を下ろし、プルトップを開ける。私が口をつけるのを待って、彼女も栓を開けた。
「ねえ、本当にどうしたの?」
黙って缶ジュースを啜るばかりの私に、彼女が訊く。「どうして、何も言わないの?」
「……」
それでも私は、しばらく黙っていた。
何を言えばいいのか分からない。そもそも最初に何を話そうと思っていたのかさえ忘れてしまっていた。頭の中に雲がかかっているような感じで、自分でもどうしていいのか考えようとするばかりだったのだ。
彼女は、そんな私を辛抱強く待った。敢えて急かそうとはせず、「このコーヒー、美味しい」とひとり言のように呟いただけだった。
「終わっちゃった」
半分以上ジュースを飲んでから、ようやく私は言った。
「ええ」
「学園祭」
「ええ」
彼女が私を見る。「なんだか、気が抜けちゃったみたい」
「……」
「そんなに体も動かしてないのにな」
「気疲れ」
「そうね」
「あなたは部長だったんでしょう」
私は頷く。
「何も出さないのならともかく、催しをやり遂げたのだから」
「やり遂げた……」
「そうね、あなたはやり遂げたのよ」
「私は、やり遂げた……のかな?」
「他の誰よりも、部室にいたでしょう?」
「それは、まあ……」
私が部室に籠っているのは、ほとんど私用だっただけに言葉を濁す。
「あなたは、ひとりで頑張ったわ」
「ひとりじゃないわ。冊子に寄稿してくれた人もいるし、交代で当番もしてくれたし、それに――」
「それに……?」
「なんだか……」
彼女が首を傾げる。
「よく分からないけど――」
私は言いよどむ。「写真……」
「写真?」
「うん。副部長がね、今日、やたらと……」
言ってしまうかどうか、悩む。だが、ここまで話してしまった以上、先を続けないわけにはいかなかった。「写真をね……、撮らせろって」
「ああ」
「なんで私なんか撮りたがるんだろ?」
「それで、撮らせてあげたの?」
「まさか。だって、気味が悪いじゃない」
「気味が悪い、か……」
彼女が微かに目を伏せる。「その人、男の子でしょ?」
「うん、そうだけど」
「……可哀そうに」
「え……?」
「撮らせてあげたらよかったのに」
「どうしてよ? だいたい私は、写真に撮られるのが好きじゃないのよ」
「あなたは、写真嫌いなのね」
「私って、写真写り思いっきり悪いし」
「その彼は、あなたのそんなことも知ってた?」
「知ってるはずよ。なのに、しつこく言うんだから」
「なのに、撮らせてほしいって何度も頼んだのね」
「うん」
「話を戻すけど、彼はどうしてあなたを撮りたがったのかしら」
「そりゃあ、フィルムが余ってたからでしょ。あいつ、写真が趣味だとか言ってたし」
彼女がため息をつく。
「ねえ、その彼って副部長だったのよね」
「そうよ」
「だったら、どうして写真部に入らなかったのかしら」
改めて指摘されると、不思議な話だった。稲枝は文芸部員だと言っても、そうそう滅多に顔を出すこともない。写真が好きなら、彼女の言うように文芸部で帰宅要員をしている必要などないはずだった。
「分かった?」
「分からないわ」
私はかぶりを振る。
「それは、本当に分からないから? それとも、分かりたくないから?」
「分からないことは、分からないのよ」
「そう……。なら、仕方ないわね」
私は残りのジュースを一息に飲み干して、空になった缶を机に置いた。
いったい、今日はなんて日なんだろう。誰もかれも訳の分からないことばっかり――。
沈黙の中、チャイムが鳴る。スピーカーが切られているのか、遠くからくぐもったような音で聞こえてきた。
後片付けの騒々しさは失せて、校内はひっそりとしてしまっている。まだ、そんなに遅い時間でもないはずなのにと腕時計を見ようとした時、彼女が言った。
「私ね」
私は、顔を上げる。
「もう、お留守番が終わりなの」
「良かったじゃない」
「ええ」
「じゃあ、お祝いに何か食べに――」
彼女が首を振る。
「どうして? もう、ここにいないといけない理由なんて、なくなるんでしょ?」
「でもね……」
「ねえ、もういい加減に理由を話してくれてもいいんじゃない?」
「……」
「やっぱり、言えないの?」
「……」
「どうしても?」
「ごめんなさい、本当に」
「もう、べつにいいけどね」
私は首の後ろで手を組んで椅子に仰のけになる。「せっかくお留守番が終わるんなら、お祝いでもしようと思っただけだし」
「ありがとう。その気持ちだけで嬉しいわ」
「……」
「私だってね、あなたとこうしてお話しているのは楽しいわ。一緒にどこかへ行けたらって思うこともあるのよ」
「でも、それは出来ないのよね」
「ええ」
またもや、沈黙が訪れる。今回の沈黙は、これまでのどれよりも長く感じられた。
「私が……」
彼女が口を開く。