黄昏クラブ
三富先生は、隣の古典部室を素通りして、その先の部屋の扉に手をかけて鍵が掛っているのを確認し、さらに先へと歩いて行った。私は一旦逆方向へ向かい、先生の姿が見えなくなってから、古典部の扉を開けた。
「ふう」
私は息をつく。「ヤバかった」
「ヤバいって、何が?」
「見回りの先生と、かち合った」
「そうなの」
「はい、これ」
私は、冊子を差し出す。
「彩夏譜? これって……」
「私の名前。でも、“さいかふ”って読むんだよ。ほら、歌で“早春譜”ってあるじゃない? なんだかさあ、どうしても自分の名前を残したくってね」
「いいんじゃない? 綺麗な名前だと思うわ」
「そう言われると」
私は頭を掻く。「自分のこと言われてるみたいで照れくさい」
「この表紙の絵」
「うん?」
「不思議と惹きこまれる」
「そう言ってもらえると嬉しい」
「ひょっとして、これは――」
私は頷く。モノクロではあるが、表紙の絵は、二人の少女が窓辺で夕焼け空を背景に向かい合っている姿だった。言うまでもなく、それは彼女と私。この部屋での印象をそのまま絵にしたものだった。
「ゆっくり、読ませてもらうわね」
彼女が言う。
「あんまり真剣に読むほどのものじゃないと思うけど」
「そんなこと、言わないことよ」
「うん。でも、やっぱり自分が書いたものを読まれるって、恥ずかしいから」
「それで、いいのじゃないかしら」
「どうして?」
「ねえ。絵って完成できるものだと思う?」
「絵?」
「そう。芸術には、完成があるのかどうか」
「そりゃあ、絵はどこまでやっても完成ってとこまではやれないかも」
「文章も同じよ。何をもって完成とするかは、作者の資質にゆだねられる」
「まあ、そうね」
「あなたがそれを恥ずかしいと思うのは、自分ではまだ完成形が見えていないだけなのかも知れない。でも、そもそも何をもって完成とするかは誰にも判断できないのではないかしら」
「うーん……。なんだか難しくて、私にはよく分からない」
「無理に分かる必要はないわ。あなたは文芸評論家ではないのだし」
「うん」
「さて、あなたはもう帰った方がいいわ。ずいぶん疲れているようだし」
「私、そんなに疲れて見える」
「見えるわよ」
「そう……」
「また明日、お話ししましょう」
「明日? 明日もいるのね?」
「あなたが望むなら」
「分かったわ。確かに、ちょっと疲れてるみたい」
「じゃあ、明日ね」
「うん、また明日」
私は鞄を取って、立ち上がった。