黄昏クラブ
16
その日は朝から雨だった。学園祭を一週間後に控えた放課後は、どこかざわついている。窓を閉め切っているせいで、本来なら解放されるはずの熱気が教室や廊下にこもっているようだ。それは普段は静かな文化系部室にまで僅かながら及び、廊下を行く生徒たちの姿もいつになく多い。
副部長の稲枝がパソコンに向かい、私はその前の椅子に座って真っ白な紙を睨んでいる。編集はほぼ終わり、あとはプリントしたテキストに挿絵を貼って印刷に回すだけだ。部室のパソコンには絵を取り込めるような機材はない。
挿絵は私と稲枝、そして申し出てくれた一年生部員で描いた。だが、表紙絵だけが未だ決まらないままだった。表紙は冊子の顔であり、最大のアピールポイントだ。他の部員は最初から嫌がったし、稲枝は描いては来てくれたものの、アニメ風の女性キャラだったために即刻ボツになった。つまり、結局表紙絵担当は私になってしまったのだ。
冊子に収録する文の内容は様々で、テーマに沿った絵というわけにもいかない。あまりにも硬いものは避けたいし、かといってふざけ過ぎも良くない。これまでも全く考えていなかったわけではなかったが、そのどれもを素案の段階で自らボツにしていた。
他のページだけ先に印刷するとしても、遅くとも三日以内には仕上げないといけない。コピー機はこの時期フル稼働なので、いつでも使えるというわけではないのだ。
それで、私はさっきから紙を前にして腕組みをしている。時々鉛筆を手に取ってはみるが、その先端は紙面に触れることもなく、脇の机をトントンと叩くばかり。
「ヌシ、さっきからうるさいぞ」
稲枝がパソコン越しに言う。
「うるさい?」
「その鉛筆」
「ああ」
私は鉛筆を投げ出す。「どうにもねえ、いい考えが浮かばないのよ。何かいい写真でもあればいいんだけど」
「写真は綺麗にコピーできないぞ。できるやつもあるけど、ウチの機材じゃな」
「だよねー」
「だから、お前が頑張れ」
「うー」
「何なら、ミルクティおごってやろうか」
「向こう三か月分ほど」
「馬鹿か。今だけ」
そこまで言ってから、稲枝は少し考えて、付け加えた。「――学園祭くらいまでなら」
「マジ?」
「あ、ああ。だから、頑張って描け」
「はいはい、そこまで言われたら、描きますよー」
私は再び紙面に向き合った。
その間に稲枝は部室を出てゆき、早々にミルクティーのペットボトルを持って戻ってきた。
「じゃ、俺は行くわ。クラスの方も見ないといけないから」
「うん。ありがとう」
「ヌシも、あんまり根詰めるなよ。いざとなりゃあ適当でいいんだから」
稲枝が去ってから、机の上に残されたスナック菓子の袋に手を伸ばす。中身はまだ半分ほど残っていた。それを齧りつつ、ミルクティを口に含み、そして唸る。
そうだ。紙が真っ白だからいけないんだ――
美術の授業でも、私は真っ白な紙を前にするとどうも物怖じしてしまう。最初の一筆を下ろすことに躊躇してしまうのだ。罫線のあるノートに描くのは、それほどの躊躇いはない。つまり、広告の裏でもザラ半紙でも、真っ白でさえなければ紙を汚すことに緊張は覚えないはずだ。
さっそくスチールの棚を探すと、端がすっかり茶色く変色してしまったザラ半紙の束が出てきた。幾らか埃っぽいが、この際止むを得まい。むしろ捨ててもいいような紙の方がもったいないという意識が働かないだけ描き易いというものだ。
薄汚い紙を前に、改めて椅子に座る。鉛筆を持って、とりあえず水平線を引いてみる。そこまで描いてから、上に描くべきか下に描くべきか少し迷い、雲を描いてみた。それから山を描き、続いて道を。意外なほどに早く描けたはいいものの、ただの落書きにしかならなかった。
くしゃくしゃに丸めて捨ててしまおうとしたが、思い留まって机の端に寄せて次の紙を引き寄せる。
やっぱり水平線を引き、紙面を見つめる。それから斜めに線を引き、適当に校舎を描いてみた。だが、これもやっぱりボツ。ありきたり過ぎる構図にうんざりする。
じゃあ、どうしたらいいのか。私は次の紙にぐるぐると円を描いてみる。
こういうのも、ありなのかな――
いっそ抽象画風にと思って、ぐるぐるを幾つも描いてみた。
「あ、ダメだダメだ!」
こればっかりは丸めてゴミ箱に投げ込んだ。
ため息をついて、椅子にのけぞる。
気負い過ぎているのかも知れないが、せっかく描くのだから下手なものは出したくない。それに、過去の冊子が残っているということは、今年のものも残るということだ。前年までの表紙がそこそこ様になっているだけに、手を抜くわけにもいかない。
そんな下らないプライドなど捨ててしまえと、心のどこかでは思っている。だが捨てきれないからこそプライドなのではないのか。
その後、何枚も描いてはみたが、いずれも満足のいくようなものではなかった。しまいには投げ出して、いつもの読書に逃げてしまった。
そして、いつもの見回りの時間。
扉が開く音で目を上げると、三富先生だった。
「相変わらず、早乙女さんだけなのね」
「ええ」
「パソコンか本か、どっちかにしなさいよ」
「あ、ごめんなさい」
稲枝のやつ、電源落とさないままだったのか――!
「で、今は何を読んでいるの?」
先生が訊く。
「泉鏡花です」
「それはまた、随分と難しいものを読んでるのね」
「難しいですけど。綺麗です」
「そうか。私なんか、途中で読むの諦めちゃったわ。学生時代のことだけど」
「そうだったんですか」
「学生時代の読書は大切よ」
三富先生が言う。「だからって、受験を疎かにしていいって理由にはならないからね」
「はい、分かってます」
「なら、よろしい。それと、速やかに帰ること」
「はい」
私は立ち上がり、スクリーンセイバーを切ってパソコンの電源を落とす。次いで、机の上に散らばった落書きを一まとめにして隅へ寄せた。
結局、考えのまとまらないまま部室を閉める。あと二日できちんと出来るのだろうかと不安になる。
気落ちしたまま扉の脇の壁に寄りかかる。
学園祭って、こんなんだったっけ――?
もっと楽しいものじゃなかったの?
こんな時間になっても、廊下を数人の生徒が歩いている。その誰もが二人以上で連れだって談笑しながら。
私はそんな光景から逃れるように扉を開けた。古典部の扉を。
逃げ込んだ古典部室。そこには、いつものように吉井のどかがいた。
「あら、どうしたの? そんなに慌てて」
扉を後ろ手に閉め、そのまま突っ立ったままの私を見て、吉井のどかが言う。
「う、うん……。べつに、慌ててるわけじゃないけど」
「うふふ」
彼女が含み笑いする。「あなたも、あんまり賑やかなのは得意じゃないのよね」
「ま……、まあね。でも、それの何が悪いの?」
「誰も、悪いなんて言ってないわよ」
「ごめん……」
ついつい気が立っていて、つっけんどんな言い方になってしまったことを詫びる。
「神経質になっているのね」
彼女が言う。
反論しようにも、実際にそうなのだから何も言い返せなかった。
「とりあえず、落ち着きましょうよ。何があったのかは知らないけど」
「私は、落ち着いてるわ」
「嘘おっしゃい」