黄昏クラブ
11
九月も間もなく終わる頃、催促した寄稿もわずかながら集まって来て、編集作業も加わり私は結構忙しかった。受験勉強のこともあり、副部長にも部室に顔を出すように釘を刺していたから、部室に一人きりということも以前ほどではなくなっていた。
とは言うものの副部長の稲枝でさえいつも詰めているわけではない。
実質的には、ひとりの時間がほんの少し削られただけで、それ以外は学園祭に向けての作業のせいで、自分の時間を犠牲にしなければならなくなっただけだった。副部長共々二年生部員も呼びつけて打合せするも、大した成果のないままに日は過ぎてゆくばかりだった。
ゲラ稿や編集、印刷も含めると時期は押し迫っていたのだが、相変わらず原稿は揃わないままだった。こうなれば部長である私が穴埋めのための何かを書かざるを得ない。当初の割り当て分は書いてしまっているので、他に何を書くべきかと思い悩む日々だった。
この間、黄昏クラブはその名のごとく、二人してまったりとたそがれるだけで、それ以上の何もなかった。黄昏クラブ。それはまさにそのままの意味において存在していたのだ。
三年生といえば、進学にせよ、少ないとはいえ就職にせよ、これまでの学校生活に少なからず変化が訪れる。誰もかもが浮足立っているような、また地に足のつかないような不安定でおぼつかない時期でもある。
私自身としては取り立てて思い悩まなければならないことなど何もなかったはずなのだが、ある日、そうも言ってはいられなくなった。
それは、ある昼休みのことだった。午後の授業が美術だったので、私は一人で美術室で弁当を食べ、まだ完成には程遠い作品を完成させるべくキャンバスを前にしていた。いつも一緒にお昼を食べている神崎美奈と須川小夜里は各々の部活に呼ばれていた。美術の単位などいい加減にしているクラスメイトの多い中、私は美術を疎かにしたくはなかった。そう、私は美術が好きだったのだ。
キャンバスを前に佇んでいると、クラスの武田が美術室に入って来た。彼は自分の描きかけの絵を出してしばし眺めた後、やおら私の方に歩み寄って来て言ったのだ。
「なあ、早乙女。すごく馬鹿みたいな話だけどさ。馬鹿過ぎて呆れられるって分かってるんだけどさ、俺……お前のことが好きなんだよ」
私はびっくりした。武田は、私が一年の時に少しだけ心を寄せはしたが、全く脈無しと思っていたのだ。
「そ……、そう」
私は言った。そして、そのまま絵筆を置いて美術室を後にした。
だって、どう反応していいか分からなかったから。
昼休み中、私は何をしていたのかは記憶にない。少し遅れて美術室に戻った時には、まだ先生は来ていなかった。受験に無関係な授業なので、真面目にやろうという生徒もいないし、教師もそれは知っていて、おざなりな授業しかしなかった。そうではあっても美術に興味のある生徒に対してはしっかりと教えてくれたから、必ずしも悪い先生というわけでもなかったのだろう。
授業中、武田の視線を感じつつも、私は無視を続けた。そちらに気を向けると心が乱れてしまいそうで恐ろしかった。でもそれは、彼に気があったからではない。その先を恐れるといった方が正しかっただろう。
結局、その日の全ての時間において、私は彼を無視し続けた。好きとか嫌いでもない、ただ怖かった。それが次第に何ものかへと変化してゆくのを感じつつ、放課後を迎えたのだった。
教室の入り口で何かもの待ち顔の武田の前を通り過ぎ、真っすぐに部室へと向かう。怒っているわけではないが、顔を合わすのが気まずかったからだ。それでも話しかけられれば、立ち止まってみてもいいくらいは思っていた。だが結局声は掛けられずじまいだった。
私自身、冷静を努めていたつもりだったが、やはり動転していたのだろう、手をかけたのは文芸部の扉ではなく、その隣の古典部のものだった。
誤りに気づいたときには、すでに扉を開けてしまっていた。
「あ……」
見慣れた窓辺に見慣れた姿。彼女がそこにいた。
「どうしたの? 今日はやけに早いじゃない」
どうしたもこうしたも、早いのは彼女も同じことのはずなのに、彼女は私にそう言った。
まさかこんな時間に開いているなどとは思わなかっただけに、私は扉を開けた姿勢のまま突っ立っていた。
「そんな所に立っていないで、入ったら?」
彼女が促す。
私は後ろ手に扉を閉めて、彼女の方へ数歩進んだ。
「あなたこそ、今日は早いのね」
「べつに」
大して気にも留めずに彼女が言う。「いつものことよ」
「だって、いつもはこんな時間には、いないじゃない」
「あなたこそ、こんな時間には来ないでしょ?」
「私は、何度か来たわよ」
「あら、そうなの」
「誤魔化さないで。私はいつも、すぐ隣にいるのよ。それに、時々確かめてみたけど、一度だってあなたはいなかった」
「じゃあ、その一度目ね」
何となく、はぐらかされた格好になって、私は憮然として椅子に座った。
「あなた、私に何か話したいことがあって、来たんでしょう?」
「……」
図星を突かれて私は何も言えなくなる。いや、もとより彼女に聞いてもらおうなんて気持ちは、さらさらなかったのだ。
このもやもやを、どう伝えるべきか、私は迷った。
そもそも、それは迷いなのかどうかさえ、私には分からないのだ。
武田によって引き起こされた葛藤は、見た目の私の表情を不機嫌にしていたのだろう。
「何か、私に話したかったんでしょう?」
彼女がそんな私の思いを知ってか、再度そう言った。
私は椅子に座り直し、ため息をついた。
「なんだか、深刻そうね」
彼女が言う。
「べつに……。深刻ってわけじゃないけど」
「思いつめているように、私には見えるけど」
「そんなんじゃ、ないわ」
「そう……」
彼女はそれ以上、問い詰めはしなかった。
「あなたって、ホントにここが好きなのね」
私は黙っているのも辛くなって言った。
「好きってわけじゃないわ。ただ、私はここにしかいられないってだけ」
窓の桟に腕を投げだし、そこにあごを乗せたままの姿勢で彼女は言った。
「私、しばらくここにいていい?」
私は訊いた。
「いいわよ。好きなだけ」
「ありがとう」
元々口数が少ないとはいえ、ただ余計なことも聞かずにいさせてもらえることが有難かった。
彼女はまるで私の存在などあずかり知らぬとでもいうように窓外を向いている。私はそんな彼女の姿を時折眺めやる程度で、ほとんどの時間膝の上で組んだ手に視線を落としているばかりだった。
こんな時、敢えて突っ込まずにそっとしておいてくれる彼女の気遣いが有難かった。何かを言われれば途端に暴走しそうな心を落ち着かせる猶予を、ただ黙したまま持たせてくれているように感じられた。
下校を促す放送が流れる。それでようやく私も少しは自分を取り戻した。本当ならば、今日は私が書いた原稿の推敲をするつもりだったのだ。だが、もうその時間はない。
「私、帰らなきゃ……」
朦朧としつつ、私は立ち上がる。
「そう? そんなに急ぎ?」
よく考えてみれば、これまで彼女と会っているのは下校時間を過ぎてからだった。その日、私は時間の感覚をすっかり失っていたのだった。