黄昏クラブ
心の裡を見透かしたかのように、彼女は言った。「やるべきことも、やりたいことも幾らでもあるはず。その全てをやろうとしたら、時間なんてどれだけあっても足りないのに、退屈だなんて贅沢だわ」
「確かにそうね」
私はそう言うしかなかった。
「ねえ、知ってる? この世にある音楽を全て聴こうと思ったら、何年かかるか」
私は首を振る。
「一千年とも一千五百年とも言われてるわ」
「そ、そんなに……」
「そんなに途方もない時間じゃなくったって、ヨーロッパの大きな美術館は、一枚の絵を数秒ずつ見たとしても数年はかかるらしいわ」
「……」
「本だってそうでしょ? 生きてるうちに、全部の本を読むことなんて、出来っこない。そう思ったら、退屈だと感じるのは贅沢だと思わない?」
言っていることは分かる。だが、留守番といいつつ無為に時間を過ごしているようにしか見えない彼女に言われて、私は少しく気分を害した。
「そう言うあなたは、どうしていつも何もせずにいるの?」
私は訊く。
「何もしてないように見える?」
彼女は応えた。「目に見える動作だけで、何かしているかそうでないかが、あなたには分かって?」
「じゃあ、あなたは何を考えているの?」
「考えてるって言えば考えているし、そうじゃないって言えば、そうじゃない」
「……」
「遊びよ」
彼女は、ぽつりと言った。
「遊び?」
「そう、遊び。あれやこれや、色々と考えて遊ぶの」
「でも、それじゃ矛盾してるわ」
「どうして?」
「幾ら勉強しても時間が足りないのなら、どうしてただぼんやりとして遊ぶの? それって無駄なことじゃない?」
「そうかしら」
彼女が私の腕を見て言う。「あなたは、時計をしているわよね」
言われて、私は自分の左腕を見る。
「その時計の歯車。歯車が回るためには、遊びが必要なのよ。完全にしっかりとかみ合ってしまったら、歯車は回れないの。人間の思考だって同じ。音楽を聴くのも、絵を見るのも同じ。遊びという余裕がなければ、何も動かない」
「だとしたら、あなたは何を遊んでるの?」
言いながら、馬鹿な質問だと私は思った。
「考えることを、考える。考えないことを、考える。あるいは、その逆」
「……」
「この時間、刻一刻と変わりゆく光加減とか、影の移ろいとか」
「いと、あはれなり……?」
私は呟いた。
「そうね、いとあはれなり。その通りかもしれないわ」
「でも、いつまでも、ぼんやりしてる訳にもいなかいでしょう?」
「私には、どうだっていいことよ」
静かに、彼女は言った。「ねえ、やるべきことがあるっていうのは、いいことだわ。あなたは、今日はもう帰るべきよ」
「吉井さんは、やっぱり――」
彼女は眼だけで頷いた。