黄昏クラブ
9
夏の日は長い。下校時間を過ぎても外はまだまだ明るい。
「ねえ、やっぱり一緒に帰ろうよ」
私は言った。
「私は、いいわ」
「どうしてよ。門が閉まるわよ」
実際には運動部が練習しているため、暗くなるまで正門が閉ざされることはない。ただ、文化部の部室が並ぶこの一角は、廊下の照明も早々に落とされる。
「私はいいわ。先に帰って」
「でも……」
「いいのよ」
「お留守番だから?」
彼女は、あいまいに微笑んだ。
「ごめん、じゃあね」
私は扉に手をかけた。ふと思いついて振り返る。「たまには、うちの部室にも遊びに来てね」
「ね、その人、どうしてお母さんと一緒に帰らないのかな」
真紀理が言う。
「ウチの学校には、変わった人はいっぱいいたからね」
「その一人がお母さん」
「かもね」
「ね、でも、これだけじゃないんでしょ? 続きがあるのよね?」
「うん。そうなの」
私はさして広いともいえない庭に視線を投げた。
さすがにお盆休みは学校も閉鎖される。世間では帰省ラッシュだとか海外脱出だとか言われているが、私には田舎と呼べるものがない。親類は共に市内に住んでおり、旅行気分など微塵もない路線バスでの移動で終わってしまう。
ただ母親の仕事も休みなので、弟の方でも友達を呼んでの騒ぎ放題というわけにもゆかず、幾らかは落ち着いて過ごせた。そのうちの一日は祖父母の家に親類縁者が集まり、揃って墓参りをし、十六日には精霊流しを見に少し離れた川辺まで行ったりした。
それが終わると夏休みも終盤。私は宿題を半分は片付けてしまっていたが、弟の方はほぼ手付かずのようだ。かくいう私も、中学の時はそんな感じだったのだが。
お盆が明けると週に少なくとも三日のペースで学校に通った。落ち着いた雰囲気で勉強や読書をしたかったこともあるし、今となってはもうひとつの目的が加わっていた。
必ずしも毎回、吉井のどかに会えたわけではない。むしろ会えないことの方が多かった。
そんなある日、顧問の村松先生が珍しく部室を訪れた。
「なんだ、早乙女ひとりか」
長机の上には宿題のノートが拡げられ、その上にはページを開いた状態の教科書が伏せてある。普段私は本をそんな風に開いたまま伏せるようなことはしないが、教科書は別だ。
「ひとりだけでも、いるだけマシじゃないですか」
私は言い返す。
「まあ、そうだな」
「見回りですか?」
「ん、まあな」
長居するつもりなのか、村松先生は鉄パイプの椅子に腰を下ろした。「学園祭のこと、何か考えてるのか」
「学園祭? いいえ、特に」
私は応える。「どうせ、いつもの文集でいいんでしょう?」
「ああ。分かってるとは思うが、二学期が始まったらすぐに準備しないとな。どうせ毎回のことながら原稿は遅れることを前提にしないと」
「はい」
「テーマとかは、どうするんだ?」
「いえ、まだ何も」
「そうか。他の奴に訊いても無駄だろうから、お前が考えておけ」
「はい」
「読書もほどほどにな」
長机の上に伏せられた教科書の横にある本を見て、村松先生はそう言うと、立ち上がった。
「先生」
出て行こうとする先生を、私は呼び止める。
「どうした?」
「い、……いえ……」
「何か、相談事か?」
「そういうわけじゃ……」
「進路のことか? 担任じゃないから分らんが、俺でもよければ」
「いえ、そんなんじゃなくって。あの……」
私は言いよどむ。その答えを聞くのが恐ろしいような気がしたからだ。「先生、古典部って知ってます?」
「古典部?」
「はい。文芸部のほかに、古典文学をやってる部活があるでしょう?」
「いや、聞かないな」
先生が少し考えてから言った。「昔はあったらしいが、確か文芸部に統合されたとか。それが、どうかしたのか?」
「やっぱり、古典部はないんですね」
「ああ。今はな」
「その古典部の部室って、どこにあったんですか?」
「さあ。俺が転任してくるより前のことだからな」
「そうですか……」
「どうした? 早乙女、古典に興味があったのか?」
「いえ、そんなわけじゃないんですけど」
「だよな。三年生の今になって転部なんて、あり得んからな」
「じゃあ、文集のテーマを古典にしても、被らないですよね」
「ふむ、そうだな。他の奴がどう思うのかは別の話だが」
「適当に考えておきます」
「ああ、じゃあな」
先生は部室を出かかる。「あ、そうそう。あんまり遅くまで残るなよ」
「はい」
やはり、古典部は存在しないのだ。それは彼女自身が言っていたことではなかったか。
村松先生が出て行ってから、少しの間をおいて私は隣の古典部の部室の扉の前に立った。そっと手を伸ばし、引いてみる。思った通り、開きはしない。使われていない部屋が閉ざされているのには何の不思議もないのだ。だが、私はもう幾度もその部屋に足を踏み入れている。閉ざされているということは、中には誰もいないのだ。開ける方法はある。教師に頼んで鍵を借りて来ればいいだけだ。口実はともあれ。
ふっと、息をつく。
それは無駄なことだ。すぐ隣に部室を移したいなど、理由にもならない。現状、何ら不満はないのだし、使っているのは私一人といって過言ではないのだから。つまりそれは、単なる私の意味不明なわがままと取られてしまうだけだろう。
仕方なく部室に戻ったものの、本の続きを読む気にもなれず、宿題に手をつける。いずれやらないといけないことなのだ。いつまでも先延ばしにしてもいられない。もっとも、気合の方はさっぱりなのだが。
その日は結局、彼女に会えないままに終わった。部室を出て隣の扉を確認しても、閉ざされたままだった。
次に彼女に会えたのは、夏休み最後の日だった。
宿題は前日までに終えてしまっていたので、すっきりした気分で私は部室を出た。いつかのようにはもう手鞠唄は聞こえては来ない。それでも私は古典部室の扉に手をかけた。
扉は何の突っかかりもなく開いた。ガラガラと大きな音を立てて。
「あら、いらっしゃい」
吉井のぞみが声をかける。
すぐ隣の部屋なのに、この扉の開け閉めの音が聞こえないというのも不思議な話だった。
「こんにちは」
私はあいさつする。それ以外にかける言葉も見つからない。
窓際へ寄り、彼女の前に腰を下ろす。この部屋にある机や椅子は教室にあるものと同じだ。会議室で使うような長机がある文芸部室とは、それだけで雰囲気が違う。
「元気にしてた?」
黙っているのも何なので、私は言う。
「まあね。あなたこそ、どうなの?」
「まあね」
お互いに見合い、くすりと笑う。
「ねえ、私なんかといて退屈じゃないの?」
彼女が問う。
「退屈? まあ、いつだって退屈だわ」
「贅沢なことね」
「どうして?」
「だって、退屈って、することがないっていうことでしょう?」
「うん……。まあ、そうとも言い切れないところもあるけど」
やらなければならないことを放置して、その上でやりたいことが思い浮かばないということもあるからだ。
「だから、贅沢なのよ」