黄昏クラブ
「甲だから乙、乙だから丙。だから甲は丙。それは演繹の罠よ。私は独りだから退屈しないと言った。そして、それは誰にも邪魔されないから。でも私は、誰にも邪魔されないためにひとりがいいとは言ってはいないわ」
「……」
「あなたは、ここにいたければ、いてもいいし、帰りたければ帰ればいい。ただそれだけのことよ」
私は黙って彼女を見つめた。正直、何と返せばいいのか分からなかったからだ。
「あなたがいたくないと思っているのに、ここに留まっているのは不自然でしょう? いたくもない人を引き留めても、それこそお互いに退屈するだけ。そう思わない?」
「それは、まあ……」
「私と同じ時間を過ごしてくれるのなら、私は退屈しないわ」
では、自分はいてもいいのかと問おうとして、私はやめた。その代わり、黙って椅子に腰を下ろした。
「ねえ」
何を話せばいいのか考えあぐねていた私は言った。「吉井さんは、いつも何時くらいにここに来るの?」
それは、先々から気になっていたことだった。すぐ隣の部室なのに、誰かが出入りするような気配すらないのだ。練習などない文化系クラブの部室ばかりが並んだこの一角で、すぐ隣の部屋の物音さえ聞こえないということはあり得ないことだった。幾ら私が読書に没頭していたとしても、立て付けの悪い引戸を開ける音は嫌でも耳に入って当然なはずだった。
私の問いに、彼女はまるで不思議なものを見るような目で私を見た。
「私? 私なら、いつもここにいるわ」
「毎日じゃ、ないでしょう?」
彼女が小首を傾げる。
「私はいつも昼からしか出てこないけど、吉井さんは毎日来ているの?」
私は重ねて訊いた。
「私は……」
彼女が口を開く。「ずっと、ここに、いるわ」
「でも、昼間はいなかったじゃない?」
「あなたが、気づかなかっただけでしょう」
「そんなこと、ないわ。それに、吉井さんだって、日がな一日ここにいるわけでもないでしょう?」
それに、彼女は哀しみをたたえた視線を返すばかりだった。
「吉井、さん……?」
伏せた彼女の睫毛が艶やかで美しい。
この場にはそぐわぬ発見に、私は不思議な気持ちになっていった。
「私は、ここにいる。それだけじゃ、駄目なのかしら」
「いや……、その……、駄目とかそういうのじゃなくって」
私は弁解がましく言う。「ほら、吉井さんがいつ来ていつ帰るのかが、ちょっと気になったって言うか、もしよかったら一緒に帰ろうかとか――」
「ありがとう。私のこと、気にかけてくれているのね。でも、ごめんなさい。私は、あなたと一緒には帰れない」
「……」
「ね、一度一緒にお茶しようよ。私、穴場のカフェ知ってるんだよ」
「ごめんなさい……」
「吉井……さん……?」
「とっても嬉しいんだけど……」
彼女が声を詰まらせる。「あなたと私のことは、ここだけに留めておいて欲しいの」
「そう……」
私は肩を落として言った。
「ごめんなさいね。せっかく、誘ってくれたのに」
「ううん、いいのよ」
私は笑顔を取り繕う。「誰しも、事情はあるもんね」
「そう言ってもらえたら……」
「ま、辛気臭いことなんて、いいじゃない。せっかくなんだしさ、パーっと!」
「パーッと?」
「ん……」
パーッと……。何をすればいいの――?
「な……何か、お話しようよ」
全く何の考えもなしに私は言った。
「あなたは、私と何を話したいの?」
「う……」
改めて問われると、取り立てて話題もない。
「いいのじゃいかしら? こうやって、ぼんやり過ごすのも」
彼女が窓の外に目をやる。私もそれに倣った。
まあ、こんなこともあってもいいか――
私はそんな思いだった。
話題など、無くたっていいのだ。ただ、同じものを見ているだけで。
暮れゆく茜が削がれて|黄橙《きだいだい》に染まる木立。
なんとなく黄昏れた気分が甘く心に染み入って来る。
その微かな痛みを伴う甘美な心情に、私はしばし酔った。彼女もまた、同じような思いを抱いてこの部屋に佇んでいるのだろうか。
ぼんやり過ごすのも、いいかも知れない。
私は彼女と共に暮れなずむ窓の外の景色を見やった。
ずっと前にも、こんなことがあったような気がする。いつの頃だったかも思い出せないが、こうして誰かと一緒にぼんやりと夕焼けを見ていたような。
まさか、ね……
私は一人、息を漏らす。
記憶も定かでない遠い昔に似たようなシチュエーションがあったとしても、その相手が彼女だったなどと思うほど、私は夢想家ではない。
本の読みすぎ。
いつか、美奈が言っていたっけ。
そんな私でさえあり得ないと思えるくらいに、現実離れした考えを振り払う。でも、往々にして、その“現実離れ”したものこそ現実だったりもするのだ。現実は小説よりも奇なりと言われる|所以《ゆえん》だ。
もし自分の思いが正したっかとしたら、これほど奇遇でロマンティックなこともないのだが、それはあくまでもお話の中にとどめておきたいという常識的な私の一面が、今のこの状況に対して幾分|斜《はす》に構えさせてしまっていた。
だが、もういい加減に帰らないといけないだろう。
「吉井さん」
私は声をかけた。「一緒に帰ろう」
「私は、いいわ」
少し間をおいて、彼女は応えた。
「もう遅いわ。どうせ帰るんなら――」
「いいの。先に帰って」
「でも……」
「あなたと私とのことは、ここだけにしてって言わなかった?」
「それは、確かに聞いたけど、せめて校門までくらいは」
「気持ちは有難いけれど、さっき言った通りよ」
「じゃ……」
「気を悪くしないでね」
「まあ、それはないけど……。あなたも早く帰った方がいいわよ」
微かに頷いたその瞳は、なぜだか潤んでいるように見えた。
「また、会える?」
扉を閉める前に、私は訊いた。
「もちろん」
彼女は微笑んで答えた。
扉を閉めるとき、もう彼女は窓外に向いていて、その表情は窺えなかった。
人は、それぞれに事情を抱えている。小説の中だけでなく、私自身も家庭問題を抱えているのだ。弟についての愚痴なら明かせても、家族三人の間の確執までも打ち明けるのは躊躇われる。彼女もまた、何がしかの問題を抱えているのだろう。私にはまだ、そこに踏み込んでゆく覚悟も何もない。
ふぅっと息を吐きながらファサードの時計を見上げると、まだ五時を少し回っただけだった。三十分以上は猶に古典部室にいたはずだったが、あれはほんのわずかな時間のことだったのだろうか。
腑に落ちない思いを抱えたまま、、私は帰路に就いたのだった。