黄昏クラブ
7
夏休みの間、私は日曜以外はほぼ毎日登校した。弟はここぞとばかり友達を引き込んではゲーム三昧だったことだろう。三つ下なのだから、弟も高校受験を控えているというのに。後に全日制受験を断念して夜学に通わなければなったのを私のせいにされたが、心外も甚だしい。母親でさえ弟をせっつかなかったとかで私を責めたが、それもお門違いというものだ。
母は元々弟にはとても甘いのだ。そんなことだから、出来るだけ家にはいたくはなかった。部室は、私にとって格好の逃げ場だった。それでも吉井のどかに出逢うまでは、休みの日まで毎日出てくることはあまりなかった。母は洗濯こそしてくれるが、アイロンがけは私の仕事だったからだ。母は結構過激な思想の持ち主だったが、弟には家事を一切させようとはせず、そのしわ寄せは当然のように私の方に回ってきた。
まあ、母や弟に関しての愚痴は、今さら娘に語るつもりもないし、必要もない。今では母は初孫である真紀理を可愛がってくれるし、真紀理の方でもうまくやってくれているから。ひょっとすると、いや、ひょっとしないでも真紀理の方が私より世渡りは上手いのかも知れない。
ほぼ毎日学校に来ていたと言っても、いつも彼女と会えたわけではない。どういうわけか、いつ確認しても鍵がかかったままなことの方が多かった。
そのうち、私はある法則のようなものに気づいた。
それはあまりにも馬鹿々々しくて自分でも呆れるようなものだったが、敢えて試してみることにしたのだった。
彼女と会うのは、決まって夕方。それも下校の見回りの後だ。その一番可能性の高い時間に試してみるのが最善だろう。
私は見回りの後、部室を出て扉を閉じかける。右隣の部屋に神経を集中しながら。その、閉じるかどうかギリギリのところで、一気に引き開けた。
とん……とん…とん、とん……。
目の前をボールが転がってゆく。いや、ボールではない。鞠だ。
手鞠が、まるで私が戸口から投げ入れたかのように跳ねて転がりゆくさまを、茫然と目で追った。
私はゆっくりと、今しがた出たばかりの部室に足を踏み入れる。
隅っこに転がったままの手鞠を拾い上げた。
「返して」
不意に、耳元で声がした。
慌てて振り返る。
誰もいない。当り前だ。その声は、ほんの小さな子どものもののようだったのだから。小学校ならともかく、ここは高校なのだ。
てん、てん、てまりは、てんころり
はずんで おかごの やねのうえ
もしもし紀州の……
「し、知らないわよ……」
私は恐ろしくなって鞠を投げ捨てた。
てん、てん、てんまり、てんてまり……
私は勢いよく扉を閉めて、そのまま鍵を掛けたかどうかも忘れたまま校舎の外まで駆けた。
「ど……どうしろって言うのよ……」
正門の門柱に手をついて激しく息をしながら私は吐き捨てた。
私に鞠つき遊びの相手をしろってこと――?
でも、誰と――?
一旦はそのまま帰ろうと駅の方へ歩きかけた私だったが、見えない壁にぶつかったように立ち止まってしまった。
鞄を持っていないのだ。あまりにも慌てていたせいで、鞄を部室に投げ出してきてしまったのだろう。定期入れも財布も鞄の中にあるため、明日取りに来ればよいというわけにもいかない。
気の進まないまま、取りに戻るよりなかった。
今さら戻って教師に見つかったら何と言われるか。でも、忘れ物をしたと言えば済むはずだ。何といっても受験生なんだから、必要なものを取りに戻るのにとやかく言う教師はいないに違いない。
私は誰にも見咎められることもなく、文化系クラブの部室があるエリアへと踏み入れた。改めて立ち入ってみると、無人の廊下がひどく暗く沈んで見えた。練習をしている運動部の掛け声や音さえ遠く、こことは隔絶されたもののように感じられた。部室の向こうの外には駐車場代わりのスペースがあり、目隠し替わりのような木々のすぐ先には二車線の道路が走っていて、この時間だとそこそこの往来があるはずだったが、そんなことなど感じさせないほどに森閑としていた。
部室の扉は、あまりにも強く閉めたせいか、その反動で少し開いたままになっていた。隙間から覗いてみると、誰もいなさそうだった。扉のすぐ脇に隠れてでもいない限り、見える範囲には人影はなかった。
私は頭が入るくらい扉を開け、室内を覗いた。
やはり、誰もいない。怪しい鞠もどこにもなさそうだ。
ほっと一息ついて、扉を開けた。
鞄は、床の上に放り出されていた。
私はそれを拾い上げ、改めて部室の戸締りをした。
「ふう……」
鍵をかけてから、私は文字通り体中の力を抜くように息を吹いた。
廊下を戻りかけた時、また聞こえてきたもの。
鞠つきの音。
てんてん手鞠の手がそれて
どこからどこまで飛んでった……
その唄は、今度は隣の古典部室から聞こえてきた。
私は急いでその場を立ち去りたいにも拘わらず、歩みを止めていた。
そっと扉に手をかける。
鍵は掛かってはおらず、少し音を立てながらも開いた。
窓辺には、吉井のどかがいた。
たった今まで鞠つきをしていたふうには見えない。
「あら、まだいたの」
「あなたこそ」
私は後ろ手に扉を閉めた。
そうだ、私は彼女に会おうとして、あんな愚にもつかない試みを実行したのだ。でも、あの手鞠唄の主と鞠はどこに行ったんだろう?
「吉井さんは、どうしていつもこんな時間まで残っているの?」
私は訊いた。
「さあね」
「さあねって……」
「では、あなたはどうしてなのかしら?」
「私は……」
「私はね、こうするしかないから、ここにいるだけ」
「うん……」
それは、私とて似たようなものだったから、何となく頷けた。誰しも、家にいたくない事情があって当然だという思いが私にはあった。いわゆる普通の家庭の定義など、私には理解の及ばないことだった。
「いいんじゃない? べつに。私にとっては、ここが一番落ち着けるし、ここにしか居場所がないから」
「私も……」
「特に、この時間が一番好き」
「みんな、帰っちゃうのに?」
彼女が肩を竦める。
「吉井さんは、ここにいて、何をしているの?」
「べつに、何もしてはいないわ」
「ずっと、ひとりでいるんでしょ?」
「あなたもね」
「でも、私は時間には帰るわ」
「帰りたいのなら、帰っていいのよ。あなたがここにいないといけない理由なんて、何もないのだから」
低い、突き放したような言い方に、私は少しむっとした。
「ひとりで、退屈しないの?」
「ひとりだからよ」
「……?」
「ひとりだから、退屈しないの」
「何よ、それ? 訳分からないわ」
「ひとりだと、誰にも邪魔されずに済むでしょ?」
「……じゃあ」
私は椅子に置いた鞄を取り上げる。「私は邪魔なのね」
「私は、そんなことは言ってはいないわ」
「だって、ひとりの方が退屈しないんでしょ?」
彼女が、ふっと笑う。
「何が可笑しいのよ」
「言葉の不完全さに笑ったのよ」
「それは、あなたが――」