ひまわり天使
前編
ひまわり、ひまわり。
ひまわり、ひまわり、ひまわり、ひまわり……。
わたしの頭の中を、ぐるぐる、ぐるぐると巡る、ひまわり。
ひまわりの花じゃなくて、ひまわりという、ひらがなの文字列が、ぐるぐる、ぐるぐると巡っている。
どうして、ひまわり?
何のきっかけで、ひまわりが出てきたのか。
とにかく、ずっと「ひまわり」という文字が。ぐるぐると円を描いて回っている。
ちょうど、天使の輪っかが太い黒のゴシック体の「ひまわり」という文字になって、それがぐるぐると回っているみたいな感じ。
そもそもわたしは、ひまわりが好きではない。いや、もっと積極的に嫌いなのだ。
なのに、頭の中では、ひまわりが延々と輪を描いて回っている。
ひまわりって、上から目線で偉そうに見下ろしている感じがするし、子どもの頃は一つ目の大きな怪獣みたいで怖かった。あの毛の生えた太い茎が胴体で、根っこがすっぽりと抜けて今にも追いかけてくるようにも見えたから。確か、そんなアニメか何かがあったような気がするし、その影響だったんだろう。今はもう怪獣のようには見えないけれど、それでも大きな目で|睥睨《へいげい》しているような威圧感を感じることは変わらない。
それなのに、よりにもよって、何故「ひまわり」なのか。朝起きた時には、そんなことはなかった。洗顔を済ませ、トーストとコーヒーの朝食をとっているときに、ぽかっと、それこそ電光掲示板が点灯したみたいに、「ひまわり」が回りだしたのだ。
わたしは生来夢見がいい方で、見た夢を全部覚えていることも多い。今朝がた見た夢にも、ひまわりなんて何も出てこなかった。
昨夜見たテレビも、ひまわりは出なかったはずだし、ここ最近は見かけることもない。当り前だ。今は十二月もなかば、真冬なのだから。地球の裏側では真夏で、そこではひまわりも咲いてはいるだろうが。
ひまわりって、確か向日葵と書いたはず。花がいつも太陽の方に向いているからそんな名前なんだそうだ。じゃあ、朝から夕方にかけて太陽を追っかけた花は、いつ東の方に戻るんだろう。ぐるんと一周するなんてことはなさそうだし、もしそうならば、茎がねじれてしまうはずだ。じゃあ、太陽が沈んだ後はそのままで、朝陽が射すと一斉にそっちに向くんだろうか。
一面のひまわり畑でそれが起こるところを想像して、わたしは背筋の凍る思いがした。それは、神秘というよりもホラーだ。
とにかく、ウザったいったら、ありゃしない。ずっと延々と「ひまわり」の文字がぐるぐるしているのだ。食べ終わった食器を流しに持ってゆく「ひまわり」。栓をひねって水を出す「ひまわり」。時間はまだ大丈夫?「ひまわり」。まだ余裕が「ひまわり」ある。
えーい! やかましいわっ!「ひまわり」
うー「ひまわり」、ど「ひまわり」うしよう……。
悩んでばかりもいられない。わたしは仕事に行く準備をした。
「うそでしょ?」
鏡の中に映った自分の姿に、しばし茫然としてしまった。
ひまわりが見えている。
頭の上五センチくらいのところを、直径三十センチの円を描いて「ひまわり」の文字が、さっきまで頭の中にあったままの字体でぐるぐると回っているのだ。
恐る恐る、手を伸ばす。
すると、ひまわりの輪っかはひょいと上の方に逃げてしまう。もっと手を伸ばすと、どんどん上の方へ上がってゆき、手が届かなくなった辺りで何事もなかったかのように回っている。
これは困った。ふと思いついて、私は心を集中した。それから「えいっ」とばかりに立ち上がった。勢いをつければ、うまく「ひまわり」を捕まえることが出来ると考えたのだ。
しかし、「ひまわり」は私と同じように上に上がってしまい、不意打ち作戦は失敗に終わった。
しばらくの間わたしは頭上の「ひまわり」と格闘を続けたが、どれも上手くいかなかった。
「いやだよー、こんなのぉ……」
こんなんじゃ、会社に行けないよぉ……。
休んじゃおうか。でも、何と言って――?
頭の上で、ひまわりが回ってるから?
確かに、それで会社には行かなくて済むだろう。ただし、永遠に。
ただでさえおかしな頭が、ついにとち狂ったと思われるに違いない。
わたしは時計を見た。まだ少しだけなら時間がある。
頭の内外で「ひまわり」が巡っている。
目を閉じて、神経を集中する。
ひまわり・ひまわり・ひまわり……。
心を無にするんだ。無我の境地を達成すれば、きっと「ひまわり」は消えるだろう。
心を無に、心を無に、心を無に………。
ひまわり・ひまわり・ひまわり……。
無に、無に、無に……。
ひまわり・ひまわり・ひまわり……。
ムニムニムニムニ……。
ひまわり・ひまわり・ひまわり・ひまわり……。
「全然ダメじゃん!」
心を無にすればするほど、「ひまわり」が自己主張してくる。
そうだ、ひまわりだから、いけないんだ。
もっとかわいいの。そう、モンブランとかに変えればいいのだ。
って、そっちかい!?
だが、これもうまくいかなかった。ひまわりは、まるで私の試みに対抗するかのように更に「ひまわり」で畳みかけてくるのだ。
もう、こうなったら仕方がない。あくまでも無視し続けて無理にでも出勤してやるっ。
えっちな言葉じゃなかっただけ、まだ良かったと思うしかない。
と、いうわけで、わたしは鼻息も荒く颯爽と部屋を出た。
「どうか、誰にも会いませんように」
でも、その気概もマンションの廊下を歩いていくうちにしぼんでしまい、玄関を出るころには借りてきた猫よろしく小さくなってしまった。
表には人通りはなさそうだ。しかし、今は通勤通学の時間、いずれは人と出くわさずにはいられないのだ。
大きく息を吸って、呼吸を整えると、わたしは外へと足を踏み出した。
はい、いきなり出会ってしまいました。もうこれは、どうしようもないことなんだけど、すっかり忘れてた。
ゴミ分別監視オバサン。べつに清掃局から委託されてるわけでもないのに、燃えるゴミの日に空き缶とか出す住人がいないか、また燃えるゴミと燃えないゴミが混ざってないか見張ってるの。もうここまできたら、ゴミを見るのが趣味だとしか思えない。ちなみに、今日は回収日じゃない。
「おはようございます」
平静を装って、わたしはあいさつする。
「あら、くまさん。おはようございます」
ええっと、申し遅れました。
わたしはれっきとした人間であって、まかり間違っても熊ではありません。苗字が久万なだけ。もしわたしが本物の熊だったら、オバサンの反応は……ま、敢えて言う必要もないだろう。
わたしはそそくさと、その場を立ち去ろうとした。
……って、え――?
「何か?」
目を丸くしているわたしに、オバサンが不審げに訊いてくる。
「い、いえ。今日も、いい天気ですね」
無理に笑顔を作って、というか、笑わないように我慢しながら、ひきつった表情でどうでもいいことを言って退散した。
わたしが見たもの。
ぺんぺんぐさ。
ぺんぺんぐさ・ぺんぺんぐさ・ぺんぺんぐさ……。