今だから
2
私は、姉夫婦の子どもを預かっている。名前は弓弦(ゆづる)。9歳。小学生男子。
義兄は海外に単身赴任中、姉は長期療養が必要な疾病のため、弓弦の世話ができないからだ。
私たち姉弟の両親はすでにない。
3年前、大企業と呼ばれる電気機器メーカーで超過勤務がたたって体を壊した私は、規模は小さいながらも、確かな技術を誇る金属加工メーカーに転職した。
昔から付き合いがあったこの会社の社長に、引っ張ってもらった形だった。
姉の病気が判明し、弓弦を引き取ることになったのもその頃だ。
弓弦が、わりと私に懐いてくれていたこともきっかけの一つになったと思う。
義兄のところに行く話もあったのだが、まだ小さい弓弦が海外の慣れない土地で日中を1人で過ごすことに、姉が二の足を踏んだ。
私と暮らすことにも、私にパートナーができた時のことを心配した姉は躊躇していたが、私ももうこの年齢なので新しいパートナーを見つけることはほぼ諦めており、その点は心配しなくていいから、と、強く押し切った。
私はゲイだ。姉もそれは知っている。
若い頃はかなり派手に遊んだ。来るものは拒まなかったし、去るものは追わなかった。年下も年上も手当たり次第、かなり幅広い年齢層と付き合っては別れて、を繰り返した。
正直、もう恋愛に期待はしていない。
新しい会社では総務部に配属された。
総務、という部署はそれなりに忙しい。この規模の会社なら、ほぼ何でも屋状態なのだが、割に和気藹々としていて、小学生と暮らしている事情も考慮してもらえ、なかなか居心地はいい。
ストレスフリーな職場環境のおかげで、患っていた胃の調子も順調に回復してきている。
そして、この会社にいると、たとえ規模の小さい会社でも、業界から認められる確かな技術というのは強い武器なのだと、改めて思う。
この規模で安定した収入を生み出し続ける、経営者のその手腕にも敬意を覚える。
昨年、わりと親しくしてくれていた製造部門の将来の責任者候補が、突然営業に異動することになった。
適材適所、社長の人を見る目を疑ってはいないが、彼のあまりの落ち込みよう、思い悩む様子を見ていられず、ついつい声をかけ、いろんな話をするようになった。
私も、営業職についていたこともある。そのときの経験が何かの役に立てば、と、自分の経験談を話したりもした。
あれから1年。最近では彼もずいぶん営業に慣れたようだ。製造にいる時はそれこそ気を遣っていなかっただろう身嗜みや身の回りのものにも、とても気を配っているのが見てとれる。
これでもう一安心、と思っていたのだが。
彼、塚原真晴(つかはらまさはる)くんは元気にしているだろうか。
小学校が休校になり、日中、弓弦を1人置いておくわけにもいかないので、私は在宅中心の勤務にさせてもらっている。おかげで塚原くんと会うこともほとんど無い。
いつも冷静沈着、無表情を崩さず感情をあまり表に出さない彼は、けれど、慣れてくれば実に表情豊かな一面を見せてくれる。
そういえば一度、事務所を出たところで営業先から戻ってきたのだろう彼と出会い、思いっきり手を振りながら駆け寄ってこられたことがあったっけ。普段の無表情な彼を知っているだけに、こんな無邪気な一面もあるのかと驚いたのを覚えている。
同時に、どこか優越感を感じたことも。
こんな無邪気な一面を見せれば、ギャップ萌え、と騒ぐ女性もいるだろうに。
「ひろちゃん、ここ教えて。」
弓弦の声にハッとする。
弓弦は姉の真似をして、私のことを「ひろちゃん」と呼ぶ。
そういえば、コロナの影響もあり、義兄さんがそろそろ日本に帰ってくるかもしれないという話がある。
弓弦と暮らすのも、もうあと少しなのかもしれない。少し寂しいが。
「んー、どこ?」
今時の小学生の勉強は難しい。えっと、算数?
職場宛のメールの作成を一時中断してノートパソコンを閉じると、私は弓弦の教科書を覗き込んだ。
***
翌日は、週に一度の出社日だった。
会社でしか片付けられない諸々の雑事を片付け、オンラインでは処理しきれなかった書類を捌いていく。それだけで午前中いっぱいかかってしまった。
「感覚が鈍ってきてるよな…」
思わずこぼれた独り言に、普段より遠い隣の席の椎名さんが反応を示す。
「柳さん、何か仰いました?」
「ごめん、独り言。気にしないで。」
歳を取ると、独り言が多くなる。
「…はぁー。」
マスク越しに、思わずため息が溢れた。
大した仕事もこなせないまま、午前中の業務の終了を知らせるチャイムが響く。
今日は弓弦は学童保育を利用している。弓弦のために用意した弁当の残りで、自分の分も作った。
その弁当を持って、事務所を出る。
食事時は、より一層密の状態を避けるよう指示されている。私は喫煙所に指定されている屋外のベンチで、弁当を広げることにした。
「…やな…さんー。やなぎさーん。」
どこかから呼ばれる声。ふと顔を上げると、営業部がはいる建屋から走ってくる塚原くんが目に入った。
小さい鉄工所から始まったこの会社は、現場となる作業所や工場を含め、建て増し建て増しで広がってきた経緯がある。
管理部と総務部、営業部と営業開発部、製造部と生産管理部と品質保証部、その他それぞれの部署が、それぞれの独立した建屋に入っている。
「柳さん、お久しぶりです。今日は出社されているんですね。」
息を切らして笑顔で挨拶してくれる塚原くん。
「久しぶりだね。皆さん元気そうでよかったよ。」
我が社からは1人の感染者も出ていないことは、本当にありがたいことだと思っている。
「…じゃ、僕はこれで…」
勢い込んで走ってきたのに、塚原くんは挨拶だけをすますと、そそくさとその場を立ち去ろうとした。
久しぶりに見かけた私に声をかけてはくれたけれど、ふと我にかえって人見知りが発動した、というところだろうか。
相変わらず、可愛らしいところのある子だなあ。
思わず笑みが溢れてしまう。
正直に言うと、塚原くんから、年上の同僚に対する好意以上のものを持たれているだろうことは、気付いている。
そして私自身も、塚原くんのことをついつい目で追ってしまうのは、彼に対する下心が全く無いわけではない、ということなのだ。
けれども彼はとても可愛らしいからね、おじさんは見てるだけで十分なんです。
「うん、じゃあね。」
笑って手を振ってみた。
塚原くんは一瞬驚いたように目を見開き、そのあと俯き加減にその場を離れていった。
うん、やっぱり可愛い。話していると楽しいしなあ。
あとは、例えばもう少し強引な一面があると、とても魅力的な大人の男になるだろうにね。もう少し私が若ければ、と思うほどのいい男に。
そうだね、認めよう。
塚原くんみたいな子は、とても好みのタイプなんだ、って。
心の中で、ひとりごちる。
でもこれは、たとえ独り言でも言ってはいけない言葉だとわかっている。
だから、決して表には出さない。