このコーヒーを飲み終えたら
土手沿いを走る初老の男性に、町田医師は軽く会釈した。真っ赤な顔をしたその男性は、町田に微笑んですれ違ったが、達也は目を逸らした。
「では、カウンセリングに来ていた皆さんは、皆は、事故の被害者ばかりじゃないですか?」
「何を言っておられるのです。確かに事故の被害者ではありますが、皆さんご存命の方ばかりですよ」
「いえ、確かに慰霊碑に皆さんの名前が刻まれていました」
「そんなはずはありません。それもあなたの想像に過ぎない。まさしく幻覚を見ている証拠です。加田さんも一所懸命仕事されています。千田さんは奥さんを亡くされても一人で頑張ってこられました。北田さんも大怪我から回復されて、今は大学に通っておられますし、林さんは旦那様を無くされても、仕事は休むことなく続けられて、松井さんはいつも作業服を着ておられるように、仕事熱心じゃないですか」
「松井さん?」
(そう言えば、松井さんの名前が慰霊碑になかった。どうして松井さんだけ? これは僕が松井さんには、実在していてほしいという願望があるからだろうか)
ふいに達也は遠くの住宅街を見た。そして何も言わず走り出した。町田医師をその場に残したまま、土手を駆け下り、以前に松井かなみを見かけた住宅街の道を走った。向かった先は、松井かなみの家だ。
一番の近道は、踏切を渡るルートだった。松井かなみが避けていた踏切。そこに走り付いた時、遮断機が下りてしまった。達也は膝に両手を突いて、ハアハアと息を切らせた。そして、電車がすぐ目の前を猛スピードで通過するその直前、踏切の向こうに視線を向けると、一瞬、本城奈美恵が立っていたように見えた。
(今のは、本城さん?)
電車が通過したが、その場所に本城奈美恵の姿はない。
(おかしい。確かに今そこにいるように見えた。やっぱり、精神的にどうかしてしまったんだろうか?)
達也は怪訝に思いながらも、踏切を駆け抜け、松井かなみの家に急いだ。途中休むことなく走り続け、地下道の前を左折し、例の丁字路にたどり着いた。ここからは坂道だ。息を整えるようにゆっくりと歩を進め、その道を上り始めた。前来た時に松井かなみが曲がった路地を探したが、それがどのくらい上った所にあったのか、見当が付かなかった。
(あの時は駆け上がったけど、それほど距離はなかったように思うのに)
歩いてゆっくり右側を見ながら登ったが、達也にはその路地を見付けられず、坂道は行き止まりになっている。もう一度、坂を下りながら確認しても、この前の路地など存在していない。
(やっぱり全部幻覚を見ていたのか? 今の自分さえ現実なんだろうか・・・)
そんなことを考えて、坂を下りて行った。
達也は呆然と歩いて自宅に戻った。クリニックに停めた工事用バンのことなど忘れてしまっていた。ただ夢を見ているような曖昧な思考の中、ただ息をしている。そんな感覚で、気が付けば家の門の前に立っていた。
(この家には誰もいない。それが真実だったら、僕は何をすればいいんだ?)
玄関の鍵は開いていた。中に家族がいることを期待したが、さっき慌てて飛び出したからだと気付いて、また重たい気分になった。
(やっぱり、誰もいないな。僕は一人だったんだ・・・)
リビングのソファに深く腰掛け、頭の中を整理しようと考えたが、何も考えなど浮かばなかった。
作品名:このコーヒーを飲み終えたら 作家名:亨利(ヘンリー)