風の絆
だが……。
「長野でも原口の1本目は距離が伸びなかったんですよ、雪が強くなってきてましてね、助走路に新雪が付くとスピードが出ないんです、それに彼の時には運悪く追い風も吹いた、いろんな悪条件が重なった難しいジャンプで、決して失敗ではなかったと今でも思っているんですけどね……でも真面目な男ですから、あのまま4位に終わったら自分を責めるに違いなかった、2回のオリンピックで続けて失敗して、2回とも団体の金メダルを逃したとなれば世間の風当たりも強くなるでしょう?……彼にもう一度チャンスをあげたい……25人のテストジャンパー全員の想いでした。 原口は長年日本のジャンプを牽引して来た男ですよ、皆が尊敬してた、それに実に好漢でしてね、誰にでも愛されていた……もちろん俺もです。 彼とは同い年でしてね、所属会社も同じでした、ですから余計にね……だからラストのテストジャンパーとして無事に着地出来た時は心底ほっとしました」
沈黙は続いていた、しかし、張り詰めた沈黙ではなく、温かいものが胸いっぱいにあふれて来て言葉にならない、そんな沈黙だ。
「続行が決まって選手控室に行くと、原口がタートルネックを貸せって言うんですよ、うっかりして着替えを持ってこなかったからって……そんな忘れ物をするような男じゃないんですよ、試合の前には何一つ違和感なく競技に集中できるように周到に準備する男なんです、ウエアを忘れるなんてことはあり得ない、あれは原口の気持ちなんだってすぐわかりましたよ」
「彼は西川さんと一緒に飛びたかった……そう言うことなんだね?」
「多分……」
「そうに違いないさ、そうか、あの時、原口選手のシャツにはNishikawaって縫い取りがあったのか、知らなかったな」
「でもね、この話にはオチもあるんです……あいつ、嘘が下手でしてね、表彰式も終わって控室に戻ってきたら、このタートルは記念に俺にくれって言って、代わりにあいつのタートルを差し出したんです、やっぱり忘れてなんかいなかったんですよ、バレバレじゃないかって笑い合いました……その時交換したタートルは今でも大事にしています……リレハンメルの銀メダルよりも自分では貰えなかった長野の金メダルの方が、俺にとっては想い出深いんですよ……」
誰からともなく始まった拍手が小さな店を満たして暖かなかそよ風が舞うと、西川は照れ臭そうに頭を掻いた。
「よし! ここにいるみんなに野沢菜茶漬けをサービスだ!」
「よっ、太っ腹!」
「いやいや、俺の腹見ながらそれを言わないでよ」
どっと笑いが起こって場が更に温まった……。
「じゃあ、また近いうちに来るよ、そうそう、本場の野沢菜漬けお土産に買って来るよ、今全部出しちゃっただろうからさ」
「そりゃ有り難いね」
「それとさ、これからも変に特別扱いなんかしないでよね、俺はここの雰囲気が好きなんだからさ」
「大丈夫じゃよ、西川さん、君が友情を何より大切に思う男じゃと今証明したじゃないか」
「ええ、それだけは自分でも胸を張って言えますよ……じゃ、また」
「またな」
「またね」
コートを翻して夜の街に消えて行く西川、その後ろ姿はいつもより颯爽として見えた。
風を切って空に飛び出すジャンパーのように。
吹き溜まりの街、新宿。
そこには今日も様々な風が舞っている。